2003年7月16日水曜日

「お盆に問われる私自身」 清水町 妙覚寺 脇谷暁融

 今回も、浄土真宗本願寺派 十勝組[とかち-そ]のテレホン法話にお電話いただきありがとうございます。

 今年も、気づいてみたら、夏至を過ぎ、夏本番の時期になりました。今年の夏は気温の変化も多く、健康などの気遣いが多い感じがします。皆さんはお変わりないでしょうか。

 暑さとともに、まもなく、各地の寺では、一軒一軒のお宅にお参りさせていただく、お盆参りが始まります。亡き人のさまざまなご縁をいただき、先代、先々代からお付き合いのあるお宅ばかりでなく、近年になってご縁をいただいたお宅もあれば、今年初めてお盆を迎えていただくお宅など、それぞれのきっかけが、それぞれのお宅にあってくださることと思います。

 「お盆」という言葉は、インドの古い言葉「ウランバーナ」の発音に、漢字を当てたものと言われ、もともとの意味は「逆さづり」、逆さまに吊られた状態、いかにも少しの間も我慢できないような、苦しい様子を表しています。

 人間は、頭が上にあり、足が地面に立つように、過ごしています。これを上下の頭と足を逆さに吊られるような状態は、日常の中では、まず経験することはありません。このままの状態を人間が経験すると「頭に血が上[のぼ]る」ということになります。この状態が長く続くならば、これは生き死にに関わる危険な事態とも言えます。

 勘違いしていただかないように付け加えておきますが、亡き人が逆さづりのような状態にあるので、お盆に私たちが迎えたり送ったりして、亡き人を供養する、というのではありません。逆さづりのような状態でもがき苦しんでいるのは、亡くなっていかれた方ではなく、この私自身のたった今、現在のありようを示してくださっています。

 それにもかかわらず、私自身のこととして受け取れないほど、「私は大丈夫だ」と思いこんではいないでしょうか。元気だから、若いから、お金が少々あるから、家族がいるから、まだまだ大丈夫だと、言い続けているのが、私自身ではないでしょうか。

 逆さづりのような状態で生きているにもかかわらず、そのことにさえ気づけないで、大丈夫と言い続けている私自身の姿を、阿弥陀さまの目から見てくださると、いかにも逆さまのことをしていると映ってくださっているのです。亡き人は阿弥陀さまのお浄土から、この事実を私自身に問いかけてくださっています。

 日々の生活に追われる慌ただしい中から、自分を振り返り、省[かえり]みることの出来ない私自身を心配して、この「いのち」について考え、「私」とは何かを問う大きな機会を作ってくださっているのが、お盆に参らせていただく最も大事なご縁です。

 今一度、自らを南無阿弥陀仏のお念仏によって問うていく生活でなければなりません。

2003年7月1日火曜日

「この身体[からだ]で聞く」 新得町 新泉寺 高久教仁

 お寺によくお参りに来られるお婆さんの中に、いつもトイレの前で手を合わす方がおられます。

 お婆さんは毎朝、目が覚めると、「あぁ、目が見えてくださる有り難いなあ。あぁ、手が動いてくださるありがたいなあ。あぁ、足が動いてくださるありがたいなあ」と思うそうです。また、庭で草を取る時には「せっかくここまで大きくなったのにすまんなあ、すまんなあ」と草一本一本にあやまりながらの作業だそうです。

 このお婆さんのお姿は、一体どこからくるものなのでしょうか。それは昔、子だくさんで食べることさえままならず、学校へも満足に行かせてもらえなかった時代に、必死でお婆さんら子どもたちを育ててくれたお母さんの後ろ姿でありました。お婆さんによると、「母は字も書けず無学であったが、いつでもどこでも誰にでも感謝、感謝の人出、とても優しい方であった。そんな母の心をいつでも“感じて”生きてまいりました」と話をしてくださったことがありました。

 今、このお婆さんと一緒に暮らしてるお孫さんがこの春、大学を卒業した時に、母親に「あなたが近所のみなさんから可愛がられていい子に育ったのは、みんなお婆ちゃんのお陰だね」とあらためて言われたそうです。大学出のお母さんは「学校にも行ってないおばあちゃんがみんなから認められるのに、自分はなぜ認められないのか」と、お婆ちゃんの生き方を深く考えられたそうです。

 私たちは、たくさんの知識を持っています。また、日々発達する科学がすべてを解決してくれると考える人も少なくはないでしょう。しかし、大切なものを見失ってはいないでしょうか。

 お寺に来られる人の中に、「お説教を聞いても少しも喜びが出てこない。一所懸命に聞いているけれども、ひとつも有り難くならない」と申される方がいらっしゃいます。それはただ仏法をことばで理解しようとして頭だけで聞いているからではないでしょうか。

 お釈迦さまが「我が裳裾[もすそ]を取りて我れに従うとも、我れを見るにあらず、法を聞くものこそ我れを見るものである」と言われています。お釈迦さまの裾[裾]を持っていっしょに歩いていても、その姿を目の前に見ながらその声を聞いていても、真実のお釈迦さまに出会っているのではないのです。

 “法を聞く”ということは“感じる”ことであり、こころからうなずくことであります。妙好人[みょうこうにん]と称された念仏詩人の浅原才市[さいち]同行[どうぎょう]は、「こころに当たるナムアミダブツ」と言われています。“こころに当たる”とは、仏さまのいのちが私の全身に響いてくださることです。教えが全身を通して入り込み、その人に働きつづけてくださることであります。仏法とは私のこの身体[からだ]を耳にして聞くことであります。

 わしが阿弥陀になるじゃない
 阿弥陀の方からわしになる
 なむあみだぶつ
さいち