2004年7月16日金曜日

「お念仏の温かさ・やさしさ」 豊頃町 大正寺 高田芳行

 現代社会は物事が複雑に入り混じって混乱した社会であるといわれます。その混乱の原因は、人々の生活の中に宗教がないからであると、ある仏教者が提言しています。

 社会の混乱は、そのまま人間関係の混乱と荒廃ということでもあります。

 人間関係が荒廃してくると、人間同士お互いのつながりが希薄になってきます。自分と他人とのつながりが見えにくくなってくるのです。お互いのつながりが見えないことにより、それぞれの人間が自己中心の考えに支配されて自己中心の生活に埋没してしまいます。そこに個々のエゴごエゴとがぶつかり合い、その社会は必然的に荒廃してくるというのです。

 今、社会には、この自己中心的な生き方が広がっていて、これこそが社会の混乱の根源ではないかと考えられます。

 「宗教不在が社会の混乱を招く」と提言した仏教者は、また「宗教は人と人とを結びつける温かさと優しさであり、接着剤のようなもの」といわれています。

 以前に知人の結婚式に出席した時に、ある方のお祝いの言葉が心に残りました。それは、

 愛するということは、互いに見つめ合うことも大切だけれども、より大切なことは、ひとつのものを共に見つめていくこと


 という言葉でした。ここにいわれる、「ひとつのものを共に見つめていく」ということは、ややもすれば自己中心の考えから抜けきれない私たちであるからこそ、お互いがひとつの「み教え」[みおしえ]を人生の拠り処とすることが家庭生活、広くは、社会生活において何よりも大切であると教えてくれているといただきました。

 親鸞聖人がおすすめくださったお念仏の「み教え」[みおしえ]は、自分の欲望を満足させるとか、自分の思いのままに人生が送れることを説いたものではありません。この私を救うという阿弥陀さまの願いを信じ、南無阿弥陀仏[なもあみだぶつ]のお念仏を称[とな]える中に、自分の本当の姿が知らされ、歩むべき方向を示して下さるのが、お念仏の「み教え」[みおしえ]です。

 そこには私と他人とのつながりを知らせ、結びつける温かさがあり、優しさがあります。お念仏を孟子ながら私と自然、私と他人とのつながりに目を開いて、心を向けて、歩んでいきましょう。

2004年7月1日木曜日

「みあとを慕って」 帯広市 仏照寺 藤本 実

 もう、2年前になります。京都・本願寺で3泊4日の研修会に参加させていただきました。日曜学校を開かれている若いお寺さんの研修で実に楽しく、充実した研修でありましたが、最終日に過酷な試練が待ちかまえていました。

 それは、滋賀県にある比叡山の山道を6人のグループで、いくつかの問題を解きながら一日かけて歩くものでした。折しも梅雨[つゆ]の時期で、朝から晩まで雨の降り続く山道を、なんとかゴールにたどり着きました。途中、もう少しで頂上というところで2人が座り込んでしまい、動けなくなってしまいましたが、休憩しながらゆっくり行こうと話し合いながらも、なぜか頂上を過ぎていないのに下り坂になりました。座り込んでしまった2人も元気を取り戻し、何とか進んでゆきましたが、目の前に立ちはだかったのは、霧にかすんで先が遥かに続く高い石の階段でした。

 言葉を失い、座り込んでしまった6人全員をもう一度立ち上がらせ、歩き出させたのは、

 「800年前に親鸞聖人もこの山道を歩かれたんじゃないか」

 という一言でした。

 親鸞聖人も、この比叡山で20年間修行をされ、法然上人のもとでお念仏を聞き開かれました。800年も先にご苦労された道筋を現代の私たちが同じ道を歩ませていただいていることに、頭が下がる思いでありました。

 がんばることがすばらしいとほめたたえられる今ですが、「頭が下がる思い」を私たちは忘れてがんばって、へこたれていたのでした。

 親鸞聖人は、ご和讃に

 不退のくらゐすみやかに
  えんとおもはんひとはみな
  恭敬[くぎょう]の心[しん]に執持[しゅうじ]して
  弥陀[みだ]の名号[みょうごう]称[しょう]すべし


 とお示しくださいました。

 恭敬とは頭の下がる思いであり、反対に、頭の上がらない世界でもあります。その心に気づかせていただいた6人は、申すまでもなく、息を切らせながらも、声を合わせ、歌を歌いながら山を降りてきたことを申し添えます。