2006年7月16日日曜日

「無数の手」 豊頃町 大正寺 高田芳雄

仏教詩人の榎本栄一さんの『無数の手』という詩を紹介します。

 『無数の手』


   父母 縁者 恩人 師 友人

   忘れし人 知らぬ人にも支えられ

   なむ千手観世音さま


 榎本さんは、千手観世音菩薩の千本の手の一本一本の中に、自分を今日まで支え、生かしてくれている人の、はたらきを重ねて見つめているようです。

 この菩薩の手は、自分を産み育ててくれた父母の手。この菩薩の手は、縁あって自分と関わってくれた人の手。この菩薩の手は、自分に恩恵を施してくれた人の手。この菩薩の手は、自分を教え導いてくれた先生の手。この菩薩の手は、自分をいつも勇気付けてくれる友人の手。この菩薩の手は、自分はもう忘れてしまったけれどお世話になった人の手。この菩薩の手は、知らないところで自分を支えてくれている人の手。今まで、そしてこれからも無数の人々の手が、自分の命を支えてくれている。菩薩さまの手は人々の手でありました。まさに榎本さんの気づきの詩です。

 菩薩の千本の手は、菩薩が人々を救う、広く深く限りないはたらきを表すものでありますが、榎本さんは、菩薩の手の中に、自分を支えてくれている身近な人々、陰で自分を支えてくれている人々のはたらきを感じ取っておられます。すばらしい発見、気付きだと思います。

 仏や菩薩のはたらきとは、この自分を離れた遠くにあるのではなく、極めて近くにあるのです。

 お念仏申しましょう。阿弥陀さまはいつも私と一緒にいてくださいます。

合掌

2006年7月1日土曜日

「「おかげさま」の いのち」 中札内村 法念寺 加藤浩英

 ご縁をいただいて、少々お話をいたします。

 早いもので7月になりました。ふりかえってみますと、いろいろな事件や自然災害が各地で起きました。心からお見舞い申します。

 とりわけ、この1~2ヵ月の中で、子どもが放火をして親やきょうだいを焼死さすとか、母親が娘や近所の子どもを殺すという想像もつかぬ大事件もありました。これらのことは私たちの心に傷をつけ悲しいことでした。

 人にはそれぞれ生き方があり、ご縁によりいろいろなことにも出会います。

 「自分の力で生きているように思っているが、本当は生かされているのだ」ということをよく聞きます。確かにその通りです。私たちがいくら利金でも空気や水がなければ、多くの方のおかげや、多くの物の恵みがなければ、一日たりとも生きることは出来ません。

 私たちは「生かされて生きている」のです。この生かされて生きている「いのち」を生ききることが何よりも大切です。

 毎日の私自身のくらしをふり返ってみましても、どうもやるべきこともやらず、言うべきこともよう言わず、グズグズしている間に空しく月日が過ぎているというのが現実の姿ではないでしょうか。

 蓮如上人は『ご文章』の中で

 ただ、いたずらにあかし、いたずらにくらして、老のしらがとなりはてぬる身の、ありさまこそかなしけれ


 とおさとしになっています。

 多くの生きもののいるこの世界で、私たちは人間の世界に生まれました。そして、南无阿弥陀仏のみ教えに抱かれて日々を送らせてもらっているのです。

 萩女子大学の、河井とし子先生の本に次の詩がありました。

 朝、起きたとき、目が見えて下さる

 手足が動いて下さる

 気もち良く、小便が出て下さる。

 当りまえだと思っていることが、

 決して当りまえでなく、

 大きな おめぐみ と知った時、

 私は、

 おかげさまと手を合わせるのです


 多くのものや、目に見えないものに支えられて生きているよろこびと、「おかげさま」と手を合せ、もったいないことと頭を下げて生きていきたいものです。

 どうもありがとうございました。