2004年5月16日日曜日

「生かされて生きているいのちの尊さ」 清水町 妙覚寺 脇谷暁暢

 現代の世相を眺めてみますと、科学技術の進歩と経済の発展により、私たちの想像を絶する生活に変わって参りました。

 このことは、私たちに大きな希望と夢を与えてくれました。そして、人類の進歩と発展に大きく貢献し、物質的な幸せをもたらしてくれたことは、誰人[どなた]にも異論はないと思います。

 然[しか]しながら、反面、精神的な面を眺めてみました時に、自己自身を見失ない、自己中心的な限りない欲望を追求し、他の人をかえりみない浅ましい、恐ろしい姿に変わってしまいました。

 人間は、人と人との間で生きられる存在といわれていますが、人と人との間にありながら、孤独でお互いに無関心で、人間不信が大きく拡がっております。

 刹那主義・一時しのぎの快楽で自己の人生を空しく過ごしている現代人。華やかそうに豊かそうに見えて、そくせうつろで、暗くてやりきれない淋しさを感じている。真実の生き甲斐が持てない、楽しみはあっても喜びがない、暇があってもゆとりがない、これが正[まさ]しく現代の世相ではないでしょうか。

 金さえあれば、物さえ握れば、という考え方が世の中に蔓延[まんえん]し、ありあまるものの中にありながら不平不満愚痴だらけの人生。「物で栄えて心で亡ぶ時代」が正[まさ]に現代でありましょう。「病める時代」と表現された識者もおられますが、自己を見失ない、ひいては、他の人の人格や、いのち一般の尊厳性をも正しく見ることが出来なくなってきています。

 私たちは今こそ、「生かされて生きているいのちの尊さ」に目覚めさせていただかなければなりません。

 ご門主さまは、全門宗にお示し下さいました『教書』の中で「真の人間性を回復する道を見出す」と仰言[おっしゃ]っておられますが、これこそ、お念仏の「み教え」[みおしえ]なのです。

 お互いに人生の生きざまを正しい「み教え」の中から真剣に見つめさせていただきたいと思っています。現代を救う真実の宗教の原点もここに見出されるのではないでしょうか。

 ともに手をとり合って、聖人のお遺し下さいましたお念仏の「み教え」を聞信させていただき、ただ一度の尊い人生を完全燃焼させていきたいものです。

2004年5月1日土曜日

「「生きる」ということ」 帯広市 光心寺 桃井直行

 お電話ありがとうございます。大正町の光心寺、桃井と申します。

 私も帯広に帰ってきてもう8年になります。今、地域で子どもたちにサッカーを教えています。

 この前、サッカー部の父兄と話していたら、「迷信」の話になりました。

 何かをしようとすると、今日は日がいいとか、13日の金曜日だからどうだとか。日本人は迷信まで輸入するのですね。方角がどうだとか、星座がどうとか。年配の人は干支[えと]を言う。お前は申年[さるどし]だから俺とはうまくいかない、俺は戌年[いぬどし]だから。‥‥本当かいな、と思ってしまう。手相・人相・ハンコ・家・墓などの相[そう]といろいろ言います。

 昔、一時流行[はや]った霊感商法。あなたのような印鑑を持っていたら不幸になります。ハンコを持つならこんなはんこにしなさいと、高価なハンコを買った人もいます。ハンコ一つで幸せになったり、不幸になったり、出世したり、出世しなかったりするのでしょうか。

 「人生は喪失体験の連続である」と言った人がいますが、私たちは、一日一日お金で間に合わないものを一つ一つ喪失しています。若さもそうですね。私も昔はこの若さがいつまでも続くくらいに思っていたのですが、そう思っているうちに、だんだん身も心も衰え、思うようにならなくなってきました。毎日毎日、大切な物を失いながら、いつまでも目を覚まさず、それで人生を終わってしまったら、それほどつまらないことはありません。

 考えてみると、「今ここにある私」というものをしっかりと見つめながら、生きていかねばならないのに、それをいい加減にしてる。その上、右を向いたり左を向いたり、よそ見ばかりしているならば、本当に「生きる」ということにならないで、空しく過ぐる人生ということになってしまうでしょう。

 「生きる」ということは、良くても悪くても、その時そのときを、力いっぱい生き抜くことなのです。そのことを明らかにしてくださったのが、お釈迦さまであり、親鸞聖人なのです。