2004年9月16日木曜日

「葬儀というご縁」 浦幌町 信行寺 岡西信行

 人は誰しも会者定離[えしゃじょうり]・愛別離苦[あいべつりく]という経験をしながら生きています。
 その中でとりわけ人が涙するのが葬儀の場面であります。
 この葬儀はなんのために勤めるのでしょうか。

 ほんの少しですが、浄土真宗の葬儀について基本的なことをお伝えいたします。

 葬儀で多くの人がすぐに思い浮かべるのが、「引導を渡す」ということを考えておられます。この「引導」[いんどう]は、浄土真宗以外の仏教で、葬儀の際に導師が個人に行う儀式であります。この「引導」の本来の意味は「人々を正しい仏法に導く」というものでありましたが、現在では、葬儀の時に行われる作法となっています。

 浄土真宗の葬儀では、この「引導を渡す」ということがありませんから、「引導を渡してもらえない者が成仏できるのですか」と聞かれることがあります。

 浄土真宗で引導を渡すことをしないのは、親鸞聖人の教えと深くかかわりがあります。浄土真宗の教えの根本は阿弥陀如来のご本願[ほんがん]にあります。阿弥陀如来のご本願は誰のためにたてられ、救いの名号[みょうごう]は誰のために完成されたかということを、はっきり聞きわけた人を、信心をいただいた人といいます。南無阿弥陀仏のお心をしっかり受けとめた人は、お浄土に往生させていただくことが約束されております。この私の成仏をお約束してくださいましたのが阿弥陀如来さまであります。そうでありますから他宗のようにお葬式の時に引導を渡されなくても成仏させていただける私であります。

 お葬式はその人の人生のしめくくりであり、命にかえて、会葬の人々にご縁を作ってくださっているとうけとめさせていただき、葬儀のご縁からお念仏を味わうようにして生活をさせていただきたいものであります。

2004年9月1日水曜日

「浮力と他力」 浦幌町 太子寺 皆川隆信

 今年は、例年になく大変な猛暑でありました。皆様、体調の方はいかがでしょうか。

 ところで、皆様は、夏というと何を連想するでしょうか。暑い、すいか、花火、お盆など、人それぞれでありましょう。私は、夏というと海、そして海水浴を連想します。暑い日にただボケーッと海を見ているだけで大変涼しくなれます。また、暑い日に冷たい水の中を泳ぐことは、とても気持ちが良いことであります。しかしながら、私は水の中が大の苦手であります。つまり、カナヅチ、泳げないのです。小さい頃に小川でおぼれたことが原因なのでしょうか。水に顔をつけることにさえ恐怖心を抱きます。

 10年前に友だちと海水浴へ行ったことがあります。泳げない私は、当然浮き輪をつけて、波打ち際で小さい子どもにまじって遊んでいました。友だちは、いい年をして浮き輪をつけて遊んでいたら恥ずかしいので、泳ぎ方を教えてやると言ってくれました。私も少しぐらいは泳げるようになった方が良いと思い、友だちに手を支えてもらい、練習したのですが、足を少しバタバタとしたら、ブクブクと水の中へ沈んでしまう有様であります。友だちが言うには、泳げるようになるには恐れずに水に浮くことが大切なことだそうです。水に浮くには、自分のすべての力を抜いて、水がもつ、物を浮かす力である「浮力」[ふりょく]にすべてを任せればいいそうです。つまり、水に浮くということは、浮力のはがらき以外の何物でもないのであります。しかし、私の場合、水に対する恐怖心のせいか、どうしても身体に力が入り、水に浮くことが大変難しいことなのです。

 阿弥陀さまのはたらきは、この浮力のはたらきとよく似ていると思います。私は、自分の力ではお浄土に往生することはできません。私がお浄土に往生するには、自分の力やはからいを抜いて、すべてを阿弥陀さまにお任せすることです。すべての人を必ずお浄土に往生させたいという阿弥陀さまのご本願にすべてをお任せすることであります。

 この私がお浄土に往生して、仏にならせていただくことは、阿弥陀さまのはたらき以外の何物でもないのであります。この阿弥陀さまのはたらきを「他力」[たりき]、「他力本願」と言うのであります。

 この阿弥陀さまの「他力」のはたらきに、この私はもうすでにつつみこまれていたことを、お念仏を称[とな]えつつ、よろこびある人生を阿弥陀さまとともに歩ませていただきたいと思うことであります。

合掌