2004年8月1日日曜日

「世界の中心は、どこなのか。」 清水町 妙覚寺 脇谷暁融

 今回も、浄土真宗本願寺派、十勝組[とかち - そ]のテレホン法話にお電話いただきありがとうございます。

 皆様は、いかがお過ごしでしょうか。いよいよお盆も近づき、夏の到来となりました。数年ぶりの猛暑で、連日に渡って寝苦しい夜が続きます。そのせいか、夏風邪もずいぶんと流行っており健康などの気遣いが多いかと思います。

 暑さの中で、一軒一軒のお宅に参らせていただく、お盆参りも勤まっています。先立たれた多くの方々のいのちを大きなご縁といただき、古くからお付き合いのあるお宅ばかりでなく、近年になってご縁をいただいたお宅や、今年初めてお盆を迎えていただくお宅など、それぞれのきっかけが、それぞれのお宅にあってくださることと思います。私たちの人生において、さまざまな機会がめぐって、多くの尊いいのちを縁としていただくものです。

 しかしながら、私たちはどこまでも自分だけを中心にして、ものを考えることをやめようとはしません。多くのいのちがあってこそ、私の命が、今日ここで生きている事実があるにもかかわらず、自己を中心として、自分のまわりに存在するものを、そしり、おとしめ、差別して生きているのではないでしょうか。

 『世界の中心で愛を叫ぶ』という本が若者を中心にベストセラーとなり、映画化までなされました。その内容は純粋に他者との関係をいかに考えていくかというもので、端的な恋愛小説です。この中身について論じるものは何もありませんが、この題名でいう「世界の中心」とは、地球の一体どこにあるのでしょうか。

 「世界の中心」はあくまで自分の存在のあるばしょから始まり、自分の存在を抜きにしては考えられない状況を示しています。自分のありようを正当化し、開き直るのも生き方かもしれませんが、それは私たちが拠り処としてきた、念仏の「み教え」とは大分違っているように思います。「世界の中心」としてしか考えが及ばない、考えることのできない自分のありようから、実は多くのいのちに支えられ、護られながら存在しているにもかかわらず、その姿に気づけない私がいるこの場所を、「世界の中心」と味わってみてはいかがでしょうか。

 だからこそ、私のいのちが、ともに世界に生きる者たちのいのちと連綿とつながっていることを阿弥陀さまの眼から知らされて来ます。私一人のためにと願われていたのは、私が何事にも気づけないまま漆黒[しっこく]の人生を歩んでいるからであり、暗黒の中にいることさえ気づけない生き方をしていたのが、私自身の本当の姿であったのではないでしょうか。浄土真宗のお念仏は、その姿が私自身の自己中心的な生き方であったと示しています。

 今回は、清水町 妙覚寺、脇谷暁融がお話しさせていただきました。