2003年9月16日火曜日

「揃っていることと、違っていること。」 音更町 妙法寺 石田秀誠

 豊穣の秋になりました。春早くから丹誠込めて育てた作物の収穫の時期になります。「秋には一粒の雨もいらない。」と、農家の方は言います。天気を気にしながらの農作業が続きます。より良い状態での収穫を願って、寝る間も惜しんで、無理を承知で進めることもしばしばなので、疲れから来る病気と作業事故が心配です。

 畑を見まわすと、どの作物も背丈が揃っていることにビックリします。スイートコーンや飼料用とうもろこしのデントコーンなどは本当にきれいです。

 背丈が揃っているのはとても美しく見えます。採れる作物もかたちや大きさが揃ったものになっているようです。私たち消費者も、いつの間にか、お店で買い物をする時に、よりかたちの良いもの、揃ったものを求めています。ところが、生産者のところでは、かたちと大きさを揃えるのに、ものによっては、お店で並べられるものよりも多くのものがすてられているのだそうです。ニンジンも大根もキュウリも、そして多くの野菜などがそうです。

 私も何かをする時に、まわりを見て、人に合わせようとする心が働きます。協調するのとは違って、当たり障りのないことを選んでいるのです。極端な表現をすると、自分と違った人がいると「変だな?」と思うようになってしまっているのです。恐ろしいことだと思います。

 「野菜のかたちなんかどうでもいいや」「そのものを味わっていこう」と思った時、今まで忘れていたものに気づくこともあるかもしれません。

 野菜も人も一緒だと思います。親と子・兄妹・姉妹・叔父叔母・友人・ことば・考え方・思想・政治体制・宗教・いままで生きてきた歴史・住んでいたところ・気候風土、‥‥どれも一緒に共有できたら楽しいことばかりです。しかし、違っている人もなんて多いことでしょう。この地球上でそれぞれが認めあって、ゆるしあって、支えあって、また時には知らないうちに人を傷つけていたりしている自分があります。そんな私を「それでいいんだよ」と、ほほえんでくださる方がおられるそうです。それが阿弥陀さまです。

 大きな違いも、小さな違いも、それぞれの特徴としてみていきたいものですね。

2003年9月1日月曜日

「智慧と知識」 新得町 立教寺 千葉照映

 釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
  願作仏心はえしめたる
  信心の智慧にいりてこそ
  仏恩報ずる身とはなれ

 智慧の念仏うることは
  法蔵願力のなせるなり
  信心の智慧なかりせば
  いかでか涅槃をさとらまし
(『正像末和讃』34・35)


 私たちの人生は価値の追究であると行って良いのではないでしょうか。

 権力というものに価値を認める人、金銭に価値を認める人、あるいは健康に価値を認める人、また、物質的なものに価値を見出していく人など様々でありましょう。

 私の部屋に置いてあるもののほとんどは、私にとって何らかの形で価値のある物ばかりであります。もし価値観をまったく認めないのであれば、恐らく捨ててしまうでしょう。私たちはその価値を認めたものを追究するために毎日毎日働き、そして一つ一つ手に入れていくのであります。

 さて、そのものに価値を認めた存在、あるいはまったく認めない存在というものがあるかのように思えますが、実際には存在そのものに価値があるわけではないのであります。

 その存在しているものを価値づけていくことの出来る力を「知識」と言うのであります。

 ところが、その価値というものを見出すことの出来るものばかりが存在しているわけでありません。

 たとえ価値を見出すことのできないものの中にも深い意味があるということを知る力を「智慧」というのであります。

 たとえば、一輪の枯れてしまった花があるとしましょう。

 枯れ果ててしまった花には価値はないかも知れませんが、その一輪の花が咲くためには去年の種がなければ、その前の年の種が、そして、光がなければ、水がなければ、さまざまな縁がなければ、咲くことはなかったのであります。

 無限に永い生命の歴史がなければ、その花の存在そのものが無かったことを知るとき、そこには深い意味があるということを知らされるのであります。

 たとえ価値なきものの中にも深い意味を感じ取る力を「智慧」と言うのであり、それを信心と言うのであります。