2004年10月16日土曜日

「ただ念仏のみぞまこと」 芽室町 大船寺 三浦敬篤

 本日は、浄土真宗、親鸞さまの「み教え」とは、どのような教えであるかということを、お話しさせていただきます。

 もともと、浄土真宗は念仏を称名[しょうみょう]する、南無阿弥陀仏[なもあみだぶつ]と仏さまのお名前を呼ぶということに尽きるのではありますが、しかし今、お念仏の声がはたして聞こえてくるでしょうか? 残念ながら、お念仏の声がいまの時代、なかなか聞こえてこなくなったように思います。

 なぜ私たちは、お念仏を申さなければならないのでしょうか?

 よく親にたとえられていわれます。つまり親の名前を呼んだことのない人間に親の愛情はけっして知りえません。かつて思いおこせば、この私はどれだけ親の名前を呼びさけんだことでしょうか。うれしい時、かなしい時、いつもいつもお父さん、お母さん、と、親の名前を呼びさけんだ。そして、親を呼ぶ私の声がしらずしらずの間に私の心を育ててくれ、いつの間にか親の恩のありがたし、と思う身にさせていただいた。

 それと同じです。仏さまの名前を呼んだことのない人間に、仏さまの心は決して知りえません。

 そして、ただ単に仏さまのお名前を呼べば良いわけではありません。

 親鸞さまは『歎異抄』[たんにしょう]のなかで

 よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにげおはします。


とお示しになってくださいました。つまりこの私が汗水流して必死になって集めてきた宝だと思ってきたすべてのものは、全部本物ではなくすべて偽物であったということです。そして、そう思いとることと一つとなって、「ただ念仏のみぞまことにておはします」なのです。

 思えば、どんなに頼りとなる父親や母親、息子さんや娘さんがいようとも、いつかはさよならしなくてはいけないのです。自分が死ぬときには、なにひとつ持っていくことはできません。

 では、何も持っていくことはできないのか?

 私は、お念仏だけ、持っていけると思うのです。そして本当に残すことのできる宝も、お念仏ただひとつだけなのです。

 私は、そのことを親鸞さまは身をもって私に伝えてくれたのだと味あわせていただいております。