2003年12月16日火曜日

「誕生を見つめて・・・」 音更町 光明寺 臼井教生

 浄土真宗の教えとは、今を生きている、厳密に申せば生かされている、この私のいのちを見つめさせていただく教えであります。

 私事になりますが、10月に子どもが誕生しました。私も出産に立ち合いましたが、陣痛が始まってから出産までの道のりは誠に険しいものであります。

 「痛い痛い」と叫ぶ妻に何もしてやれない切なさや、弱音を聞くたびに10ヵ月間の努力やたくさんの思い出が浮かび、目頭が熱くなりました。

 そうこうしているうちに、いよいよくらいまっくす。母子ともにいちばん辛い時期であります。私も助産師さんについて、「ヒーヒーフー、ヒーヒーフー」と声をかけます。そして12時間かけて、ついに誕生です。10ヵ月間母親の胎内で育ち、そしてこの世に誕生させていただいた姿はまさに感動そのもので、その時の感想はと言うと、「生まれて来てくれてありがとう!」の一言でした。出産後に先生より胎盤も見せてもらいましたが、これに対してもただ「10ヵ月間ありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいでした。

 一般的に、誕生は華やかであり、反対の死に関しては暗いイメージがあります。しかし浄土真宗の教えでは、生と死を別のものとは捉えず、「生死一如」[しょうじいちにょ]とあるように、一つのものと説きます。こうした中、お釈迦さまが説かれているように、いま生まれて来てくれた、この子もまた、「生老病死」[しょうろうびょうし]という厳しい現実を生きていかなければなりません。まさにいずれは迎えなければならない死への秒読みが始まったんだなと実感しました。

 このように申しますと、「お寺さん、生まれた側から悲観的ですね」と思う方もおられるかもしれません。しかし決して悲観ではありません。これが事実なのであります。そしてまた、私もそのうちの一人なのだと再認識させていただきました。

 現実の苦しみから目をそらさない。ありのままを見つめさせていただくのが仏教の教えであります。ですが、実際にはなかなか直視できないのがこの私であります。しかしながら、このような私を見捨ててはおられないと願われたお方こそが、阿弥陀さまでありました。

 そして、「そのままの姿で救うぞ!」「ただお念仏を称えてくれるだけで、誰一人、漏らさずに救うぞ!」という阿弥陀さまのおこころを学ばせていたえだくのが、浄土真宗の教えであります。

 この度の子どもの誕生を見て、「私もまた、同じように母親が大変な思いをして生んでいただいた。そして私の親もまた同じように生まれさせていただいたのだ」と、いのちのロマンを感じました。

 まさにこれは「いのちのリレー」と呼べるのではないでしょうか? そして命の尊さ、大切さを次の世代へとバトンタッチする。これがお念仏の相続であります。

 現在2ヵ月目に入り、お陰さまで元気に育っております。親となってまだ2ヵ月ですが、ともに育てられる日暮らしを遅らせていただきたいと思います。

2003年12月1日月曜日

「人生の一大事」 大樹町 光教寺 岩崎教之

 今年もいよいよ師走に入り1年がもう終わりますが、私たちが人生を生き抜いていくとき、さまざまな終わりがあります。学生生活の終わり、サラリーマンとしての終わり、そして人生の終わり。

 どれをみても大切な人生の区切りです。それらの終わりを迎える時に、何とか充実した終わりを迎えたいと誰もが思い力をしますが、終わりが近づけば近づくほど、「ああもすればよかった、こうもすればよかった」という思いが強くなるものです。けっして怠けたわけではないのにそういう思いが強くなります。

 源信和尚[げんしんかしょう 942-1017]は『往生要集』に、自分の人生が終わろうとしているにもかかわらず、肝心な自分の「いのち」の問題には全く無関心で、どうなっても大したことはない事柄の方が気になり、「あれもしたい、これもしたい」という人間の有りさまを示しておられます。

 そして、せっかく人間として生まれさせていただいたのだから、人間の身勝手な思いに振り回されることなく、ひとときでも早く仏法を弔問して、もっとも大切なことは何かをはっきりさせるべきだ、と教えてくださっています。

 では、いったい人間として最も大切で、このことだけは獲得しておかなければ、他の全てのことが意味を失うような事柄とは何なのでしょう?

 私たちの日常生活は、日々煩悩に支配され、苦悩なしに生きていけません。その人間の根本苦から解放し、安らかな浄土へと導くために説き開かれたのが「お念仏」の「み教え」[みおしえ]です。そのみ教えは、凡夫である私たちが、阿弥陀如来の智慧の光に照らされ、自己と如来の真実を教えてくださるものです。それは、世俗の営みと煩悩の支配の中でしか生きることのなかった私たちが、如来さまのお言葉に耳を傾け、浄土をめざして生きる人間にお育てくださるものです。み教えに遇うことこそ「人間としてのいのちを生きる意味」なのです。

 損得に縛られ、本当に大切なことは何かが分からない私たちを、如来さまは私たちに先立って心配し、途方もなく長い思惟[しゆい]の後、私たちを救うために与えてくださったお言葉こそ「南無阿弥陀仏」の名号なのです。

 私たちは人間として「いのち」を恵まれました。そしてこの「いのち」は浄土へと帰りゆくべき尊い意味をもっていると知らされました。人間の身には終わりがありますが、この身の終わりが如来さまへの仲間入りと聞かされ、生と死を超えることができそうです。これもすべてお念仏のはたらきです。このはたらきをよろこべるかどうか・・・。これこそ人間としての一大事であります。