2005年4月16日土曜日

「いのち」 帯広市 帯広別院 伊澤英真

 お電話ありがとうございます。

 4月になり少しずつ春めいてきました。あたたかい日にはホッとするような気持ちになります。この陽気とは裏腹に、テレビでは身も凍るようなニュースでいっぱいです。

 核戦争の脅威・殺人・中絶・差別・人権侵害など私たちの周りにはいのちを粗末に扱うことが多いようです。

 いのちの尊さ・ありがたさを見失っているのではないでしょうか。では、どうしていのちが尊く・ありがたいのか。なぜでしょう。そのように問われると返答に困ってしまうのではないでしょうか。

 浄土真宗では、御本願の中に「十方衆生」と呼びかけられ、「若不生者、不取正覚」[にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく]と誓われています。この言葉は私たちが"仏の子"して生を受け"仏となるべき身"としてこの人問の世界にご縁をいただいたということです。

 それは南無阿弥陀仏という仏となって、私のいのちいっぱいにあたたかいお慈悲のみこころで、強く明るく生き抜かせるぞと誓われ、願われ、お働きくださっているのです。

 いわば南無阿弥陀仏に遇[あ]わせるため、この世に生を受け、み仏様とともに歩ませていただく尊い・ありがたいいのちでありましょう。み仏様はなによりも、いのちの尊さを説き、平等を教えられます。いのちに重い軽いはなく、すべての生きとし生けるすべてのものにお働き下さっているのです。

 数えきれないいのちのリレーで生を受け、数えきれないいのちの支えに生かされるいのちのまことのすがたに気づかされ歩む人生は、ありがたさ・尊さと慶びでいっぱいでありましょう。

 まことのいのちに気づかされ「生まれてよかった、遇えてよかった」と味わえる人生こそ、み仏様とともに歩ませていただくお念仏の道であります。

 殺伐とし、つめたい今の時代だからこそ、いまお念仏です。ご家族でお念仏申しましょう。

2005年4月1日金曜日

「智慧のはたらき」 帯広市 帯広別院 伊澤英真

 お電話ありがとうございます。

 浄土真宗ではこころのよろこびに逢えたのを"信心のよろこび"とか"お念仏のよろこび"とか言い表します。お念仏をよろこぶというのは智慧のまなこを開かせていただくことです。目をさまさせていただくことです。

 目がさめてみますと本当のものが本当と受け取れます。その第一が"私自身を知る"ということです。

 ところが私たちは私自身が一番わからないのです。醜いものを美しい・愚かなものを尊いと思ってしまいます。しかもこれで良いと自分で納得するのです。

 お釈迦さまが故郷に帰って、農民の水を巡るけんかを仲裁された時の話です。

 インドのカピラ城とコーリ城の中間にローヒニ河が流れていました。大干ばつが続き水が無くなったため、ローヒニ河の水を奪い合って兵器を持ち出し、戦いが始まろうとしていました。

 お釈迦さまは両者の代表を集めていわれました。

(お釈迦さま)「そなたたちは何をしようと思ってここに集まっているのか」
(代表者たち)「戦うためです」
(お釈迦さま)「何のために戦うのか」
(代表者たち)「水がほしいからです」
(お釈迦さま)「何のために水がほしいのか」
(代表者たち)「米を作るためです」
(お釈迦さま)「何のために米を作るのか」
(代表者たち)「いのちをまもるためです」


 お釈迦さまはいのちをまもるためにいのちを共に奪い合うことの愚かさ・矛盾をさとされました。

 私たち人間は本当に大切なものを見失っているのではないでしょうか。生活に追われながら損だ得だといいながらも、必ず死んでいかなければならない身であります。

 仏様はそんな私たち人間を自分・他人、美しい・醜い、好き・嫌い、善悪を超えて智慧と慈悲の中に包み込んで、まことの人生・本当の人間の道を歩ませて下さるのです。

 それが南無阿弥陀仏のあたたかいおはたらきでありましょう。