2004年5月1日土曜日

「「生きる」ということ」 帯広市 光心寺 桃井直行

 お電話ありがとうございます。大正町の光心寺、桃井と申します。

 私も帯広に帰ってきてもう8年になります。今、地域で子どもたちにサッカーを教えています。

 この前、サッカー部の父兄と話していたら、「迷信」の話になりました。

 何かをしようとすると、今日は日がいいとか、13日の金曜日だからどうだとか。日本人は迷信まで輸入するのですね。方角がどうだとか、星座がどうとか。年配の人は干支[えと]を言う。お前は申年[さるどし]だから俺とはうまくいかない、俺は戌年[いぬどし]だから。‥‥本当かいな、と思ってしまう。手相・人相・ハンコ・家・墓などの相[そう]といろいろ言います。

 昔、一時流行[はや]った霊感商法。あなたのような印鑑を持っていたら不幸になります。ハンコを持つならこんなはんこにしなさいと、高価なハンコを買った人もいます。ハンコ一つで幸せになったり、不幸になったり、出世したり、出世しなかったりするのでしょうか。

 「人生は喪失体験の連続である」と言った人がいますが、私たちは、一日一日お金で間に合わないものを一つ一つ喪失しています。若さもそうですね。私も昔はこの若さがいつまでも続くくらいに思っていたのですが、そう思っているうちに、だんだん身も心も衰え、思うようにならなくなってきました。毎日毎日、大切な物を失いながら、いつまでも目を覚まさず、それで人生を終わってしまったら、それほどつまらないことはありません。

 考えてみると、「今ここにある私」というものをしっかりと見つめながら、生きていかねばならないのに、それをいい加減にしてる。その上、右を向いたり左を向いたり、よそ見ばかりしているならば、本当に「生きる」ということにならないで、空しく過ぐる人生ということになってしまうでしょう。

 「生きる」ということは、良くても悪くても、その時そのときを、力いっぱい生き抜くことなのです。そのことを明らかにしてくださったのが、お釈迦さまであり、親鸞聖人なのです。

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