2002年6月1日土曜日

「お念仏は、何のため、誰のため。」 清水町 妙覚寺 脇谷暁融

 今年は春の訪れがとても早く、少し忙しい思いの中、農作業や庭の手入れに取りかかったのではないでしょうか。あるいは季節が落ちつくまで、健康などの気遣いが多い時期でもあります。皆さんはお変わりないでしょうか。

 時期ながら、各総会なども終わり、私たちの十勝の本願寺派のお寺約40と帯広別院の協力により、テレホン法話も長い時期活動を続けられており、今年も引き続いて皆さまのお世話になることと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 5~6月、管内のお寺では、親鸞聖人のお誕生日をお祝いする「降誕会[ごうたんえ]法要[ほうよう]」が各地で勤まりました。私たちの宗派をお開きいただいた親鸞聖人は今から800年近く前の鎌倉時代に、阿弥陀如来の真実を明らかにされ、お念仏とともに90歳まで生き抜かれた人生を私たちに示してくださいました。

 そのお念仏によって示された私たち自身のありようを、現在のご門主は「自分だけの殻に閉じこもらず、自分自身がつくりかえられ、人々の苦しみに共感し、積極的に社会にかかわってゆく態度も形成されてゆく」(教書)と具体的に示してくださいました。

 どうでしょうか、私たちは日頃からこのように味わっているでしょうか。

 普段の暮らしの中で、かかせない毎日のお仏壇の給仕とともに、お念仏を称えさせていただく、当たり前のように考えていますが、果たして何のために、誰のために、お念仏があってくださるのでしょうか。

 「念仏は私たちがともに人生の苦悩を担い、困難な時代の諸問題に立ち向かおうとする時、いよいよその真実を表します。」(教書)


 本当はつきつめた問題のはずである、私自身の心の闇について、深く見つめ直してみようとも思わない、見つめ直す気にさえなれない、闇があることにさえも気づくことのできない私自身に向かって、その闇の深さをひたすらに示してくださっているのが、お念仏のはたらきであります。闇の中にずっといては気づくことが決してできない私に向かって、ともどもにその苦悩さえも抱き取って見捨てはしないよと、たったいま私自身を支え続けている、その阿弥陀如来のはたらきが、私たちの耳に音として届けられいるのが、お念仏、「南無阿弥陀仏」[なもあみだぶつ]の響きであります。

 今一度、自らをお念仏によって問うていく暮らしでなければなりません。

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