2002年12月1日日曜日

「「あたりまえ」のなかに・・・」 足寄町 照経寺 鷲岡康照

 師走に入り、だんだんと慌ただしくなってまいりました。

 「慌ただしい」という字は「りっしんべん(心)」に「荒れる」という字でできています。

 「りっしんべん(心)」に「亡びる」という字を並べると「忙しい」という字になりますし、「心」を下に書くと「忘れる」という字になります。

 「忙しい、忙しい」の生活は、大切なものを荒らし、亡ぼし、忘れさせている生活です。こういうときほど、静かに自分を見つめ、一年を振り返ることが大切なのではないでしょうか。

 井村和清氏は前途を嘱望された若い医師でしたが、右膝に悪性腫瘍[しゅよう]が発症し、残り少ない生であると知らされます。彼は、この世で迎える最後になるであろう昭和54年の正月に、家族への新年の贈り物として「あたりまえ」という詩を残されています。

 あたりまえ
 こんなすばらしいことを
 みんなはなぜよろこばないのでしょう
 あたりまえであることを
 お父さんがいる
 お母さんがいる
 手が二本あって、足が二本ある
 行きたいところへ自分で歩いてゆける
 手をのばせばなんでもとれる
 音がきこえて声がでる
 こんなしあわせはあるでしょうか
 しかし、だれもそれをよろこばない
 あたりまえだ、と笑ってすます
 食事がたべられる
 夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる
 空気をむねいっぱいにすえる
 笑える、泣ける、叫ぶこともできる
 走りまわれる
 みんなあたりまえのこと
 こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
 そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
 なぜでしょう
 あたりまえ


 仏さまの光に照らされて、あたりまえじゃなかった、「有り難い・おかげさまの人生」であったと知らされるのではないでしょうか。

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