2005年7月1日金曜日

「仏法は身体で聞く」 新得町 新泉寺 高久教仁

 よく法座などのお説教の中で「仏法は耳で聞くのではなく、身体で聞くものですという言葉を耳にいたしますが、これはどういうことでしょうか。

 今年は例年になく遅い春でありましたが、それでも5月も中旬を過ぎると野山の草木も青々と芽吹き、新しい命の声に力を頂ながら日々の法務を動めております。

 そんな中、先日、ある一人暮らしのおばあさんのところへ月忌参りにお伺いしたときの話です。

 早朝、いつものようにおばあさんのお宅の門をくぐり、右手に畑を眺めながら玄関に向かうわけでありますが、なにやらいつもと違う景色に驚いた私は、玄関に入るなりおばあさんに尋ねました。

 「おばあちゃん、畑どうしたい。耕してあるじゃないか。また、無理して。体、大事にしなきゃ駄目だよ!」

 というのもおばあさんは、20年程前にご主人を亡くされてから、2人のお子さんが札幌方面に就職されていたこともあって1人暮らしとなり、少しでも家計のためにと宅地の周りの庭を畑に耕して、大根や小豆、カポチャやキュウリなど立派な野菜を作ってはお子さんたちに送ってあげることが一番の楽しみになっていましたが、5年ほど前から関節痛、腰痛に悩まされ、最近は歩くのも杖をついてやっとという状態で、自慢の畑もこの2年間は休んでおられました。それなのにその畑が縞麗に耕してあるではないですか。

 おぱあさんのいうには、この2月にお兄さんが亡くなり、今は転動で函館にいる息子さんが葬儀のために帰省され、たとき、あまりの大雪だったので葬儀の後1泊をして、家の周りを椅麗に除雪をしていってくれたそうです。その後、何を思ったのか5月の連休に突然訪ねてきて休んでいた畑を耕していったそうです。葬儀のときに会った母はぴっくりする程年老いていて、息子さんもお母さんのために何かせずにはおられなかったのでしょうか。

 「おばあちゃん、それは良かったね。息子さんに会えたのも、また野菜が作れるのもネ!」

 ところがおばあさんは言い返します。

 「いや、いや、見てご覧なさい。今まで畑なんかいじったことのない息子だから…こんなのは土をひっくり返しただけで耕したとはいえないねえ」とかなり不満そう。

 「おぱあちゃん、息子さんにまさかそんなことをいったんじゃないだろうね。」

 おばあさんは少し考えてからこう言いました。

 「厳しく育ててきた息子でねえ。こんな仕事しかできないと思うと情けなくてねえ。のどもとまで出かかったけれどもねえ…口から出てきた言葉は『遠くからすまなかったねえ、ありがとねえ』という感謝の言葉だったんだよねえ。不思議とねえ…考えてみたら、私がもう少し元気だったらきっと『なにやってんの』と叱りつけていただろうねえ。私の弱った、老いたこの体が、息子の優しい気持ちを素直に受け止めさせてくれたのかねえ。何だか有り難いねえ。なんだかねえ。」

 なんと深い味わいでしょうか。

 頼りにしているこの私自身が一番頼りにならないものだとわかったとき、今まで見えなかったもが見えてきたり、聞こえなかったものが聞こえてきたりする。この味わい。私は今まで聞かせて頂いたことの実践静で聞くことであると思っておりましたが…。

 「仏法は身体で聞く」

 日々壊れゆく、変化してゆくこの身体こそが仏法の真実を私に教えてくださっているのだと改めてこのおばあさんのお言葉に教えて頂きました。

 なもあみだぶつなむあみだぶつ

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