2002年10月1日火曜日

「じっと一緒にいるということ」 音更町 妙法寺 石田秀誠

 先日、高等学校の同期会が帯広のホテルであったのに久しぶりに参加しました。

 同期会・クラス会は良いものです。お互い年齢もごまかせませんし、何十年前はああだったのに、今の澄まし顔を見ますとふきだしてしまいそうなこともあります。その多くの思い出は時効になっているのですが、案外根にもってひきずっていることもあったりします。

 そうした友人たちの中で、感心する彼がいます。学生の時は決して特別目立つ存在でなかったのですが、今ではクラス会には無くてはならない存在なのです。

 彼は今でこそ落ち着いているのですが、よく仕事も変わりました。ある時は「会社員」、ある時は「公務員」、またある時は「施設職員」、「不動産屋さん」など‥‥。「今何しているの」と尋ねるのが常でしたが、本人はいっこうに気にしていないのです。

 彼はじつに「ひょうひょうとしている」のです。こだわりがないのです。特別なことはなにもしない、自然体なのですね。そして面倒見がよのです。面倒見といってもなにも特別に経済的な援助をするということではないのですが、困ったことが起きるとまず顔を見に行くのだそうです。それが一番なのですね。何も言うことはない。じっと一緒にいること、その大変な気持ちの「つらさ」「悲しさ」を共感するだけ。

 こんなことが、度重なって、いつの間にか、頼れる彼に変身していたのです。

 彼はいつの間にか、仏教で言う「無罪七施」[むざいのしちせ]の中の、「和顔愛語」[わげんあいご]の実践者になっていたのです。

 すごいなあと、こちらの気持ちも言ってみました。

 こだわりのない生き方、実に良いねえ! と言いますと、「俺にも悩みはあるさ」「俺だって感じるんだ!!」と言います。人間です。生きているのです。当たり前のことです。でもそう言いながらもなおひょうひょうとしています。

 いま、同期のみんなが、定年だ再就職だと悪戦苦闘しているのをしりめに、やっぱりゆうゆうとしているのです。揺るぎない信念とでもいいましょうか。

 うーん、‥‥参ったなあ、‥‥阿弥陀さんだなと言ったとこです。

 さて、阿弥陀さまはいつも私と一緒にいてくださるとお聞かせくださっております。本当に辛い時に私と一緒に悩み、苦しみ、悲しんでくださるのです。

 相田みつをさんの詩にこのようなのがあります。

 誰にだってあるんだよ
 人には言えない苦しみが
 誰にだってあるんだよ
 人には言えない悲しみが
 ただだまっているだけなんだよ
 言えば愚痴になるから


 辛い時に、ちょっともらした一言がずっと尾を引くこともありますし、同情が憐れみになってしまうことさえもあります。

 本当はその愚痴を聞いてほしいのです。愚痴を聞いてもらえたら安心できるのです。阿弥陀さまの前では物わかりのいい良い子になることはないのです。思いきって愚痴りましょう。

 この詩を、私は、阿弥陀さまに思いっきり聞いてもらいなさいと言ってくださっているんだろうと、読ませていただいております。