2005年2月16日水曜日

「人間の知恵と仏さまの智慧」 音更町 光明寺 臼井教生

 昨年末、TV番組で「白い巨塔」というドラマが再放送されていました。

 大学病院における出世や権力争い、また患者に向き合う医師同士の葛藤がリアルに表現された作品で、私も毎週欠かさずに見ました。

 しかしながら、あのドラマの内容というのは何にも、TVの中の話だけではなく、また人学病院における医局という問題だけではありません。

 まさに、この私たちが生きている世界そのものを表していたのではないでしょうか?

 人間の知恵とは頭が上がり、仏の智慧は頭が下がります。

 人間の知恵とは、人間の方から未知なるものを学び、覚え、理解することであり、知識・教養・学問の世界です。そして知恵がつけばつくほど偉くなり、賢くなって頭が上がってきます。

 しかし仏さまの智慧とは、仏さまの方から私を照らし、目覚めさせ、こころの闇を破って下さる働きですから、仏さまの智慧に遇[あ]えば遇うほど、私の愚かさ・恥ずかしさ・罪業の深さに気づかせられ、頭が下がるばかりです。

 仏法は、知識・学問の世界ではありません。今まで見えなかったこと、気づかなかったことを仏さまの智慧によって気づかされ、目覚めさせてくださるのです。

 人間は知恵がつけば偉くなり、賢くなるので頭が上がり、仏法を聞く耳がなくなってきます。つまり、素直に仏さまの教えに耳が傾けられなくなるのです。

 しかし、「実るほど頭[こうべ]を垂るる稲穂かな」ということわざがあるように、どんな社会の人でも本当に学問や人格が備わってくれば、自分の愚かさ、小っぽけさに気づき、とても謙虚になってきます。自分の智慧や力に頼り、自分一人の力で生きていると思いあがっている間は、頭が上がるぱかりです。すぐに善人づらをして、善人づらしていることさえ気づきません。

 法語集に「賢くなることを教える世の中に、自分の愚かさを気づかせる教えこそ人間の道である」という言葉がありました。現代は本当に賢くなることを教え、知恵がついてきた人が増えてきて、かえって人間の心がますます荒廃[こうはい]してきたようです。それ故に、自分の愚かさを教える仏さまの教えに、素直に耳をかたむけたいものです。
(『聞法』を参考にさせていただきました。)

2005年2月1日火曜日

「私が私であって良かったと言えるあなたになれ」 芽室町 寶照寺 泉恒樹

 いつでも どんなときでも 「私が私であって良かったと言える あなたになれ」と 喚びかけて下さる方があった。
 その喚び声を聞くことが人間としていちばん大切な願いではないでしょうか。

 こう言葉を遺して逝った中島みどりさん。行年40歳でした。
 悪性リンパ腫と告知され、それを現実として受容し、残された僅かないのちを惜しみつつ、激痛の合間に「旅立つ私のメッセージ」と題して子どもたちへ手記を残されました。
 母親を必要とする時期に母親を失う子どもたちに、「ごめんね、何もしてあげられないお母さんを許してね」と謝りながら、二人の子どもたちが、強く明るく生き抜いてくれるようにという「いのちの叫び」が、いまこころに響いてくるようです。

 どんな思いで病気と闘ってきたのだろうか?
 どんなにか 生きたかったと思っていただろうか?

 でも、縁が尽きれば、いのちを終わっていかなければなりません。

 人は必ず死を迎えることは誰しもが分かっています。分かっていない人はいないでしょう。
 では、人は何故死ぬのかを知っているでしょうか?
 病気になったから? 歳をとったから? いろいろと理由が出てくるかもしれませんね。

 答えは、生まれてきたからです。
 彼女が亡くなった理由も、生まれてきたからに他なりません。

 そして、生まれてこなければ、苦しむこともなければ死ぬこともありません。
 でも、それが生きているということではないでしょうか?
 生きるとは、自分の思うようにはならないものです。
 しかし人は、思うようにならない人生を、何とか思うように生きたいと願うものです。
 でも結局は、願うようにはなかなか生きられません。
 そこに私たちの苦しみが生まれてくる大きな要因があるのです。

 今、宗教というと、自分の願いや都合を叶えてもらうものと思っている方がどれだけいるでしょうか。
 願いを叶えてもらえるならば…。
 病気が治るならば…。

 確かに、そうなればこれほど嬉しいことはありませんね。
 でも、先ほど言ったように、思うようにはなかなかなりません。
 思うようにならない苦しい時でも、力強く生きる力を与えてもらえるのが宗教なのです。

 この方は、信仰とは救われることであり、支えであり、目覚めであり、今日一日生かされていたことへの感謝であったと言いました。
 そのことにより、毎日の辛い治療に耐え、病と闘いながらも人生を恨むことなく、公開せず、ましてや不幸を他人のせいにすることなく、最後まで明るく笑顔と感謝の中で人生を生き抜いたようです。

 いつ私たちが、病になり、いのちが終わるか分かりません。
 まさに今、私たちが思いもよらない人生のまっただ中にいます。
 どのような生き方になっても

 いつでも、どんな時でも 「私が私であって良かったと言える」 生き方を歩んでいますか?