2002年11月16日土曜日

「人生の年輪」 新得町 立教寺 千葉照映

 ようこそお電話くださいました。

 樹木というものには必ず年輪があります。大きな木を切ってみるとわかりますように何本もの筋が入っています。それが年輪でありますが、一年一年と確実に刻まれており、確実に太い木へと成長を遂げているのであります。

 これと同じように人間の年齢というのも、年輪と考えて良いのではないでしょうか。

 一日一日の暮らしの積み重ねが人間としての年輪となって刻まれていくのであります。

 さて、私たちはこの木と同じように人間として確実に成長しているでしょうか。

 私は、人間としての本当の成長を見るのは、仏法に遇っているかいないか、聞くべきことを聞き、遇うべきものに遇っているかどいうことだと思うのであります。

 その聞くべきこと、遇うべきものというのが問題になるのであります。

 親鸞聖人の書かれたお書物の中に「東夏[とうか]日域[じちいき]の師釈に遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已[すで]に聞くことを得たり、真宗の教行証を敬信して特[こと]に如来の恩徳[おんどく]深きことを知んぬ、ここをもって聞く所を慶[よろこ]び獲[う]るところを嘆ずるなりと」とお示しくださいました。

 親鸞聖人の生涯にとって最大の喜びは恩師・法然上人[ほうねんしょうにん]に遇えたこと、そしてその法然上人よりお聞かせにあずかった、南無阿弥陀仏のおいわれ、すなわち「必ず汝を救う」と誓われた阿弥陀如来さまのお呼び声を聞くことができたことだったのであります。

 私たちはとかくつまらぬことを聞き、つまらぬものに遇い、それを喜びとしてしまいがちでありますが、本来聞かなければならないこと、遇わなければならないものに出遇わなければなりません。

 それが、仏法であってこそ初めて人間として確かに年輪を刻むことのできた、実りある豊かな人生、と言うことができるのではないでしょうか。

 またのお電話をお待ち致しております。ありがとうございました。