2005年10月16日日曜日

「あなたが大切だ」 音更町 西然寺 白木幸久

 遠くの山々では、もう「白い便[たより]」が届いているとのこと。秋のお彼岸も過ぎ、一日一日冬支度[ふゆじたく]が進んでいる、今日この頃です。健康とは、「体は健[すこ]やかに、心は康[やす]らかに」という意味だそうですが、皆様、健康な日々を送っていられるでしょうか。

 先日のことですが、「滝川市内の小学校で自殺」とのニュースが流れていました。朝、登校してきた同級生が、教室で首をつって、ぐったりしている女の子を発見。先生が人工呼吸して、救急車で病院に運びましたが、意識不明の重体とのことでした。

 どういう理由で自殺しようとしたか、どんな悩みを抱えていたのか、定かではありませんが、小学6年生といえば、まだ11歳か12歳。同じような年頃の子を持つ親として、胸の痛みとともに、我が子への不安をかき立てられました。

 同じく、6月のことでしたか、長崎県佐世保市で、小学6年の女の子が同級生の首をカッターナイフで切って、殺害した事件が起こりました。後からの真相によれば、血が噴き出して、動かなくなっていく姿を、しばらくじっと見ていたとのことです。何のことはない、いつ生き返るかと思って見ていたらしいのです。その後の調査でも、「人は死んでも生き返ると思っている小学生が多い」との報告には、びっくりさせられました。まさか、自殺を試みた女の子も、自分は生き返られると思って、自殺したわけではないでしょうが……。

 「人生は苦なり」とは、そのために仏教をお開きになった、お釈迦様の言わずと知れたおことばですが、自分の人生、自分の命を簡単に終えていこうとする、子どもたちがいます。以前でしたら、取るに足らない子どもの自殺は考えられなかったのですが、簡単な理由で、命を絶っていく子どもたちがいます。またその一方で、簡単な理由で、人の命を傷つけ、奪っていく子どもたちがいます。一体、いつのころから、いのちがこんなにも軽くなったのでしょうか。

 目の前の生き物たち、地をはうもの、海を泳ぐもの、空を飛ぶもの、この世に生きとし生けるものたちはみな、いのちを惜しみながら必死に生きようとしています。私たちがつかまえようとすれば、必死になって逃げまどいます。だれも好んで、つかまろうとはしません。

 世の中に生きる無数の生き物たちのなかで、人間として生まれてくることは、すくいあげる砂ほどにまれなことなのです。お釈迦様は、人間として生[せい]を享[う]けたという、希有[けう]なことを自覚してほしいと説きました。でも、現実に生きている私たちには、「希有な生を享けた」という実感がわくこともなく、毎日に追われています。それこそが、自殺を試みたり、他人を簡単に殺そうとする事件を生み出す背景となっているように思われます。

 人間は、ほかの生き物と違って、自分で自分を見つめることができます。自分の良いとこ、悪いとこ、自分の弱さや不安、さらにはいのちの果てまで、自分で計り知ろうとします。これを「自覚」といますが、この自覚こそ、私たちに、大いなるエネルギーを与えます。自分が人間として生まれたことや、いまこうして、いのちがあることの有り難さの「自覚」が、いまを精一杯生きようとする力となるのです。

 「命は地球よりも重い」とは言われますが、

命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千何万回言われるより、あなたが大切だ、誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける


と新聞広告にありました。そう言ってあげてほしいと思います。そのほうが、どんなにか、子どもの心に響くことか……。

 改めて、私たちは、子どもたちがどれほどの尊いいのちを持っているかを自覚し、父母の立場にあれば、「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも本当にうれしい。あなたは大切な人」と、いつでも語って聞かせてあげてください。祖父母の立場ならば、なおさらのこと、お孫さんがかわいく思えることでしょう。ですから「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも、本当にうれしく思っている。おじいちゃんとおばあちゃんもそう。あなたは大切な人なのよ」と、何度でも語ってほしいと思います。それが、自分のいのち、そして自分以外のいのちの大切さを知る第一歩になっていくと思います。

2005年9月1日木曜日

「「今」を生きる」 浦幌町 太子寺 皆川隆信

 まだまだ残暑厳しい日が続く今日この頃ではありますが、皆様いかがお過ごしでしょう。

 今年の天候は、異常というほど、寒暖の差が激しく、体調がおかしくなる程です。7月だというのに寒い日が続き、朝晩はストーブをつけていたかと思えば、8月に入ってからはいきなり猛暑となり、急いで扇風機をつけている始末です。寒ければ寒いと文句を言い、暖かくなればいいなあと思い、暑くなれば暑いと愚痴を言い、涼しくなればいいなあと願っています。私の本当の心の中を考えてみると毎日毎日が不平不満そして愚痴いっぱいの日暮らしであります。もう二度とは来ないこの「今」を誠実に謙虚に有難く生きているかといえば、そうではないなぁーと思わされることであります。

 有名な布教使の先生が百歳になられた時のことです。ある出版会社の記者がインタビューに来ました。ご高齢である布教使の先生は大変耳が遠く、付き人をまじえて対談をしました。出版社の記者が、「長生きの秘訣は何ですか」とたずねると、付き人が布教使の先生の耳もとで大きな声で、「長生きの秘訣は何ですかと聞いておられます」と叫びます。すると、布教使の先生は、「う~ん、よく食べてよく働いてよく眠ることかぁ」と答えました。こんな感じで対談は進んでいきました。最後の方で記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。付き人からこの質問を聞いた布教使の先生は、「あなたは今、何歳ですか」と逆に質問しました。記者はすぐに「43歳です」と答えると、布教使の先生は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは43歳の時です」と答えました。

 次の日、違う出版会社の記者が来て、同じようにインタビューをしました。記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。布教使の先生は、昨日と同じように、「あなたは今何歳ですか」と逆に質問しました。「私は55歳ですが…」と記者が答えると、「私は今まで生きてきた中で一番良かったのは55歳の時です」と言いました。

 昨日は43歳が、今日は55歳が一番良かったと答えています。しかしながら、布教使の先生がおかしなことを言っているのではありません。「今」この時が、一番大切でかけがえのない時間であるということを言いたかったのです。

 不平不満、愚痴いっぱいの毎日が、この今が、この一瞬が、阿弥陀様のはたらきの中でありましたとよろこばせていただくことであります。

合掌

2005年7月1日金曜日

「仏法は身体で聞く」 新得町 新泉寺 高久教仁

 よく法座などのお説教の中で「仏法は耳で聞くのではなく、身体で聞くものですという言葉を耳にいたしますが、これはどういうことでしょうか。

 今年は例年になく遅い春でありましたが、それでも5月も中旬を過ぎると野山の草木も青々と芽吹き、新しい命の声に力を頂ながら日々の法務を動めております。

 そんな中、先日、ある一人暮らしのおばあさんのところへ月忌参りにお伺いしたときの話です。

 早朝、いつものようにおばあさんのお宅の門をくぐり、右手に畑を眺めながら玄関に向かうわけでありますが、なにやらいつもと違う景色に驚いた私は、玄関に入るなりおばあさんに尋ねました。

 「おばあちゃん、畑どうしたい。耕してあるじゃないか。また、無理して。体、大事にしなきゃ駄目だよ!」

 というのもおばあさんは、20年程前にご主人を亡くされてから、2人のお子さんが札幌方面に就職されていたこともあって1人暮らしとなり、少しでも家計のためにと宅地の周りの庭を畑に耕して、大根や小豆、カポチャやキュウリなど立派な野菜を作ってはお子さんたちに送ってあげることが一番の楽しみになっていましたが、5年ほど前から関節痛、腰痛に悩まされ、最近は歩くのも杖をついてやっとという状態で、自慢の畑もこの2年間は休んでおられました。それなのにその畑が縞麗に耕してあるではないですか。

 おぱあさんのいうには、この2月にお兄さんが亡くなり、今は転動で函館にいる息子さんが葬儀のために帰省され、たとき、あまりの大雪だったので葬儀の後1泊をして、家の周りを椅麗に除雪をしていってくれたそうです。その後、何を思ったのか5月の連休に突然訪ねてきて休んでいた畑を耕していったそうです。葬儀のときに会った母はぴっくりする程年老いていて、息子さんもお母さんのために何かせずにはおられなかったのでしょうか。

 「おばあちゃん、それは良かったね。息子さんに会えたのも、また野菜が作れるのもネ!」

 ところがおばあさんは言い返します。

 「いや、いや、見てご覧なさい。今まで畑なんかいじったことのない息子だから…こんなのは土をひっくり返しただけで耕したとはいえないねえ」とかなり不満そう。

 「おぱあちゃん、息子さんにまさかそんなことをいったんじゃないだろうね。」

 おばあさんは少し考えてからこう言いました。

 「厳しく育ててきた息子でねえ。こんな仕事しかできないと思うと情けなくてねえ。のどもとまで出かかったけれどもねえ…口から出てきた言葉は『遠くからすまなかったねえ、ありがとねえ』という感謝の言葉だったんだよねえ。不思議とねえ…考えてみたら、私がもう少し元気だったらきっと『なにやってんの』と叱りつけていただろうねえ。私の弱った、老いたこの体が、息子の優しい気持ちを素直に受け止めさせてくれたのかねえ。何だか有り難いねえ。なんだかねえ。」

 なんと深い味わいでしょうか。

 頼りにしているこの私自身が一番頼りにならないものだとわかったとき、今まで見えなかったもが見えてきたり、聞こえなかったものが聞こえてきたりする。この味わい。私は今まで聞かせて頂いたことの実践静で聞くことであると思っておりましたが…。

 「仏法は身体で聞く」

 日々壊れゆく、変化してゆくこの身体こそが仏法の真実を私に教えてくださっているのだと改めてこのおばあさんのお言葉に教えて頂きました。

 なもあみだぶつなむあみだぶつ

2005年6月16日木曜日

「本願力にあいぬれば」 帯広市 帯広別院 谷口昭栄

 お電話有り難うございます。十勝組テレホン法話でございます。

 一昔前は人生50年といいましたが、今日では70年とも80年ともいう時代になってきました。"昔はよかった"と言われるご老人もいらっしゃれば、"長生きしてよかった"と現代を肯定する人もいます。いずれにしても、わが身の都合で、その時代を否定したり、肯定したりしているのではないでしょうか。ただ、人生50年といわれた時代は、今日のように、あれもこれも、したり見たりせねばならないというような忙しさはなかったようです。人生にかなりの余裕を持ちながら、しかもわが人生は50年なのだという、ある一線を引いて、充実した豊かな人生を送ろうと心がけていた人たちが多かったように思います。

 いくら長生きしても、出会うべきものに出会って人生を終わらなければ、人間として生きたことにはならないのです。つまり、寿命は長さで計るべきものではなく、その人の人生における豊かさ深さでいうべきだということです。自分を深く見つめて、充実した豊かな人生を生きるためには、今私たちは、何をどうすればよいのでしょうか。

 苦労せず生きてきた人は一人もいないはずです。要はその苦労が、その人をどのように育てたかということです。私はこのままで人生を終わってもよいのか、と自分を振り返ったとき、せっかくの苦労が無駄に終わっているとするならば、何か空しいものを感じることでしょう。

 そのように"空しいなあ"と感じたなら、その空しさをどうしますか。まぎらすのであれば自分の趣味などがあるでしょう。又、最近では健康法が流行し、盛んになってきているのではないでしょうか。いかに健康で長生きし好きなことをしていても、自分の人生のなかにおいて大切なものに出会わなければ、人生を空しく過ごしてしまうことになるのではありませんか。その空しさを自覚する道は、仏の本願に会い、本願に生かされていく生活を始める以外にないのではありませんか。

 親鸞聖人は

本願力にあいぬればむ むなしくすぐるひとぞなき


と和讃にうたわれています。本願力に遇[あ]うとは、聞法して本願を信じ念仏を申す人となることですが、ただ本願を信じられるようになったということではなく、すでに成就している本願の火が私の煩悩を燃やし続ける。充実した人生を生きるとは、そのように私の煩悩に本願の火がつき、負うべき課題をもち、それを問い続ける人生が始まるということではないでしょうか。

2005年6月1日水曜日

「真実を写し出す鏡」 芽室町 大船寺住職 三浦敬篤

 昔から人間は、人生とは、白分とは、杜会のあり方はと問い続けております。

 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、当時、知恵者を自任するソフィストといわれる哲学者たちに、「なんじ自身を知れ」と問答法をもって問うています。自分は何者であるか。これを知らずして、すべてのことは始まらないと言います。また、ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、よく生きることだ」と述べています。よく生きるとは、正義をまもることであると言います。

 そのソクラテスはソフィストたちに市民裁判にかけられ、死刑の判決をうけます。彼は、弟予たちに亡命をすすめられますが、不当な判決ではあるけれども、都市国家の正義を貫くためと、自ら毒杯をあおいで死にます。この中、ギリシアの都市国家は衰退していきます。

 いつの時代も、正義の下で論争が生じ、それが動乱や戦争へと拡人します。現代でも、科学が進み、社会が発展しいるはずですが、さまざまな問題を抱えております。人問の知恵で解決したいものですが、まだまだ未熟であります。

 自分を知ること、よく生きること、どれをとってもその答えを得るのは、なかなか難しいようです。

 自分のものさしで、ものを見る。そのものさしは、都合よく、ときには長くもなり、短くもなる。自分の持つものさしは、当てにならないものです。そして、自分の顔を、自分白身で見えないように、真の自己が見えてきません。自己を写し出す鏡が、必要に思います。

 我が身の真実を写し出す鏡は、何でありましょうか。親鸞聖人のお言葉に

 浄士真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実の我が身にて
  清浄の心さらになし


とあります。み仏の光・教えを通して見えてくる世界でありましょう。偽りのない我が身が見えてくる、虚仮不実と見えるのです。

 この身が生きている。不思議と生きている。かってに心臓が動いている。いつまで続くかは分からない。もしかすると生きているのではなく、生かされているのではと、気づかせてくださいます。そして、私のまわりには、支えてくださっているたくさんの「いのち」があります。そのたくさんの「いのち」に支えられて、私は今ここに生きていると気づかせていただいております。

2005年5月16日月曜日

「足の裏のつぶやき」 鹿追町 浄教寺 池上恵龍

『足の裏のつぶやき』

 重い体に踏みつけられ、他人はおろか当人にも省みられず。
 ほめられもせず、いたわられもせず、
 ただ、もくもくと支えつづける、
 風呂に入っても丁寧に洗ってくれる人は少ない、
 それでいて、熱いところに、いきなりつけられるのは
 決まって「足の裏」
 くさい靴下の中で、じっと我慢を強いられ
 窮屈な靴に押しこまれ、何十年経っただろう
 たまに私の顔を覗いても
 ひび割れた甲、しわがれた皮膚、変形した指を眺め
 アーアーと、ため息をつくが
 溜息つきたいのは私の方だ、誰が私をこんなにした。


 富山に住む私の先輩・阿部行道さんが作られた促の裏のつぶやき」という詩です。私たちは、社会を論じ、人の行いを批判することには長けていますが、自分を振り返ったり、身近で普段世話になっている入や物に目を向けることは案外おろそかになっています。この詩は、「たまには、後ろを振り返って、疎かにしてきた、見過ごしてきた大切なものに目を向けてください」というメッセージだと思います。

 足の裏に目を向けることは、普段、表立ったところではあまり知られず、それでいて無くてはならない大きな力で支えてくださっている人たちが、家庭でも、社会でも、はたまた自然界でも沢山いることを知らせています。そのことは、支えられ生かされてきたにもかかわらず、自分一人の力で生きてきたように思い上がっている私のお粗末さが発見されることでもあります。

 少し丁寧に目を向ければ、どんなところでも裏方がいることに気がつきます。手を合わせましょう。きちっと目を向けて、そうした人々や、自然や、ものに、手を合わせましょう。私たちは頭だけで生きているのではないですものね。

 南無阿弥陀仏の教えは、私に、そうした目を開かせてくださり、お世話になっている一つひとつを「ありがたい」と喜びいただく心を知らせてくださる本当の宝物だと思います。

 あなたも一度「足の裏」を眺めてみませんか、そして、足の裏に手を合わせてみたいものです。

2005年4月16日土曜日

「いのち」 帯広市 帯広別院 伊澤英真

 お電話ありがとうございます。

 4月になり少しずつ春めいてきました。あたたかい日にはホッとするような気持ちになります。この陽気とは裏腹に、テレビでは身も凍るようなニュースでいっぱいです。

 核戦争の脅威・殺人・中絶・差別・人権侵害など私たちの周りにはいのちを粗末に扱うことが多いようです。

 いのちの尊さ・ありがたさを見失っているのではないでしょうか。では、どうしていのちが尊く・ありがたいのか。なぜでしょう。そのように問われると返答に困ってしまうのではないでしょうか。

 浄土真宗では、御本願の中に「十方衆生」と呼びかけられ、「若不生者、不取正覚」[にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく]と誓われています。この言葉は私たちが"仏の子"して生を受け"仏となるべき身"としてこの人問の世界にご縁をいただいたということです。

 それは南無阿弥陀仏という仏となって、私のいのちいっぱいにあたたかいお慈悲のみこころで、強く明るく生き抜かせるぞと誓われ、願われ、お働きくださっているのです。

 いわば南無阿弥陀仏に遇[あ]わせるため、この世に生を受け、み仏様とともに歩ませていただく尊い・ありがたいいのちでありましょう。み仏様はなによりも、いのちの尊さを説き、平等を教えられます。いのちに重い軽いはなく、すべての生きとし生けるすべてのものにお働き下さっているのです。

 数えきれないいのちのリレーで生を受け、数えきれないいのちの支えに生かされるいのちのまことのすがたに気づかされ歩む人生は、ありがたさ・尊さと慶びでいっぱいでありましょう。

 まことのいのちに気づかされ「生まれてよかった、遇えてよかった」と味わえる人生こそ、み仏様とともに歩ませていただくお念仏の道であります。

 殺伐とし、つめたい今の時代だからこそ、いまお念仏です。ご家族でお念仏申しましょう。

2005年4月1日金曜日

「智慧のはたらき」 帯広市 帯広別院 伊澤英真

 お電話ありがとうございます。

 浄土真宗ではこころのよろこびに逢えたのを"信心のよろこび"とか"お念仏のよろこび"とか言い表します。お念仏をよろこぶというのは智慧のまなこを開かせていただくことです。目をさまさせていただくことです。

 目がさめてみますと本当のものが本当と受け取れます。その第一が"私自身を知る"ということです。

 ところが私たちは私自身が一番わからないのです。醜いものを美しい・愚かなものを尊いと思ってしまいます。しかもこれで良いと自分で納得するのです。

 お釈迦さまが故郷に帰って、農民の水を巡るけんかを仲裁された時の話です。

 インドのカピラ城とコーリ城の中間にローヒニ河が流れていました。大干ばつが続き水が無くなったため、ローヒニ河の水を奪い合って兵器を持ち出し、戦いが始まろうとしていました。

 お釈迦さまは両者の代表を集めていわれました。

(お釈迦さま)「そなたたちは何をしようと思ってここに集まっているのか」
(代表者たち)「戦うためです」
(お釈迦さま)「何のために戦うのか」
(代表者たち)「水がほしいからです」
(お釈迦さま)「何のために水がほしいのか」
(代表者たち)「米を作るためです」
(お釈迦さま)「何のために米を作るのか」
(代表者たち)「いのちをまもるためです」


 お釈迦さまはいのちをまもるためにいのちを共に奪い合うことの愚かさ・矛盾をさとされました。

 私たち人間は本当に大切なものを見失っているのではないでしょうか。生活に追われながら損だ得だといいながらも、必ず死んでいかなければならない身であります。

 仏様はそんな私たち人間を自分・他人、美しい・醜い、好き・嫌い、善悪を超えて智慧と慈悲の中に包み込んで、まことの人生・本当の人間の道を歩ませて下さるのです。

 それが南無阿弥陀仏のあたたかいおはたらきでありましょう。

2005年3月16日水曜日

「お経をいただくご縁」 清水町 寿光寺 増山誓史

 今年も春の彼岸の時節となりました。暑さ寒さも彼岸までと申しますが、日中の日ざしも段々と暖かくなってまいりました。今年は、3月20日が春分の日にあたり前後3日間の17日から23日が春のお彼岸の期聞となります。

 多くの方にお参りをいただき、納骨堂やお墓で手を合わせていただくことでございます。お寺に参られた方に、「お経をあげてください」といわれ、お中日には五人も六人もお待ちいただくようなこともございます。お経が終わると「よかった、よかった、これで安心した。」とおっしゃいます。亡き方を偲ぴ手を合わせることは、とても尊い事でございます。小さな子供さんが手を合わせている姿を見ると、特にその思いが伝わってまいります。

 しかし、お経をあげ、お骨に手を合わせる。それだけでいいのでしょうか。

 お経をあげると申しますが、お経は亡き方のためにあげるものなのでしょうか。

 お経はお釈迦様の御説法です。その内容はと申しますと、人間として生まれさせていただいた、かけがえのない命を、いかにして精一杯に生かさせていただいたらいいのか? という問いかけに、お釈迦様がお答えを示された内容がお経なのです。生きることに悩んだり苦しんだりしておられる方々への御説法ですから、亡き方にあげるというのではなく、今まさに生きているこの私がいただいていくものなのでございます。

 あらゆるものは、その姿を変えながら移ろい、変わらないものなど何ひとつないのだとお示しいただいた娑婆世界に生かされているこの私。頼りにならないものを頼りにし、あてにならないものをあてにして、あっちへふらふら、こっちへふらふらと迷いながら生きております。決して変わることのない真実は仏法であり悟りの世界であり彼岸でござます。永遠の命である阿弥陀仏から願われているこの私。生まれがたき、人間の命を恵まれ、会いがたき、仏法にあわせていただいた喜ぴを、亡き方をとおし、今現在生きているこの私の命のありようを間いかけながら、お経のご縁をいただかせてまいりたいと思うことでございます。

2005年3月1日火曜日

「度衆生のこゝろ」 大樹町 誓願寺 頓宮彰玄

 親鸞聖人のご和讃に
 願作仏[がんさぶつ]の心はこれ
  度衆生[どしゅじょう]のこゝろなり
  度衆生の心はこれ
  利他真実[りたしんじつ]の信心[しんじん]なり

というお示しがあります。賜[たまわ]りたるご信心の内容を“願作仏心・度衆生心”とされ、念仏者として社会の問題に取り組んでゆく依り処となるご文[もん]でもあり、近年重要なご文だと言われております。

 特に「度衆生のこゝろ」とは、あらゆる命を救わずにはおかない心、更には命の痛み、苦しみを私の問題と頂いてゆく、ということでありましょう。

 大学時代、西元宗助先生が、ある時、こうおっしゃっておりました。

 「今日は皆さんにお願いがある。皆さんが京都の学びを終えて、各々のお寺へ帰ってゆく時が来ると思うが、そこにはおじいちゃんおばあちゃんやら、多くのご門徒がいらっしゃると思う。その一人ひとりは何十年シャバをいいも悪いも含めて様々な思いをしながら、その思いを命の奥底に秘めて生きている。
 表面に出てくる言動だけ見ていると、浄土真宗の教えからするとどうかなと思うことがあるかもしれない。でもそれを頭ごなしに裁く前に、そう言わずに、そうせずにおれないその命の奥底の思いをたずねてほしい。そして、その思いとともに寄りそってゆく、そういう人になってほしい。そこに本当のお念仏の道、姿があるんだ」

と。

 逆に、「学んできた、身につけてきたことを、正しい教えを握りしめて、それを振りかざして、人様を見下して裁いてゆく、そういう人にならないでほしい」、そういう意味のお話がありました。

 それからもう、20年近い年月が経ちました。西元先生が亡くなって、十数年になりますが、今でも日々そのお言葉に秘められたお心に気づかされ、教えられることが多くあります。

 ご信心に込められた“度衆生の心”、それは命の奥底をたずね、その思いとともに寄りそってゆくこと、「川に沿って岸がある、私に沿って本願がある、どうにもラチのあかない私に沿って本願がある」と言われ、「お念仏は寄り添うて下さる如来さま」と言います。

 「度衆生の心」と合わせて、信を賜って生きる念仏者の相[すがた]として味合わせて頂きましょう。

2005年2月16日水曜日

「人間の知恵と仏さまの智慧」 音更町 光明寺 臼井教生

 昨年末、TV番組で「白い巨塔」というドラマが再放送されていました。

 大学病院における出世や権力争い、また患者に向き合う医師同士の葛藤がリアルに表現された作品で、私も毎週欠かさずに見ました。

 しかしながら、あのドラマの内容というのは何にも、TVの中の話だけではなく、また人学病院における医局という問題だけではありません。

 まさに、この私たちが生きている世界そのものを表していたのではないでしょうか?

 人間の知恵とは頭が上がり、仏の智慧は頭が下がります。

 人間の知恵とは、人間の方から未知なるものを学び、覚え、理解することであり、知識・教養・学問の世界です。そして知恵がつけばつくほど偉くなり、賢くなって頭が上がってきます。

 しかし仏さまの智慧とは、仏さまの方から私を照らし、目覚めさせ、こころの闇を破って下さる働きですから、仏さまの智慧に遇[あ]えば遇うほど、私の愚かさ・恥ずかしさ・罪業の深さに気づかせられ、頭が下がるばかりです。

 仏法は、知識・学問の世界ではありません。今まで見えなかったこと、気づかなかったことを仏さまの智慧によって気づかされ、目覚めさせてくださるのです。

 人間は知恵がつけば偉くなり、賢くなるので頭が上がり、仏法を聞く耳がなくなってきます。つまり、素直に仏さまの教えに耳が傾けられなくなるのです。

 しかし、「実るほど頭[こうべ]を垂るる稲穂かな」ということわざがあるように、どんな社会の人でも本当に学問や人格が備わってくれば、自分の愚かさ、小っぽけさに気づき、とても謙虚になってきます。自分の智慧や力に頼り、自分一人の力で生きていると思いあがっている間は、頭が上がるぱかりです。すぐに善人づらをして、善人づらしていることさえ気づきません。

 法語集に「賢くなることを教える世の中に、自分の愚かさを気づかせる教えこそ人間の道である」という言葉がありました。現代は本当に賢くなることを教え、知恵がついてきた人が増えてきて、かえって人間の心がますます荒廃[こうはい]してきたようです。それ故に、自分の愚かさを教える仏さまの教えに、素直に耳をかたむけたいものです。
(『聞法』を参考にさせていただきました。)

2005年2月1日火曜日

「私が私であって良かったと言えるあなたになれ」 芽室町 寶照寺 泉恒樹

 いつでも どんなときでも 「私が私であって良かったと言える あなたになれ」と 喚びかけて下さる方があった。
 その喚び声を聞くことが人間としていちばん大切な願いではないでしょうか。

 こう言葉を遺して逝った中島みどりさん。行年40歳でした。
 悪性リンパ腫と告知され、それを現実として受容し、残された僅かないのちを惜しみつつ、激痛の合間に「旅立つ私のメッセージ」と題して子どもたちへ手記を残されました。
 母親を必要とする時期に母親を失う子どもたちに、「ごめんね、何もしてあげられないお母さんを許してね」と謝りながら、二人の子どもたちが、強く明るく生き抜いてくれるようにという「いのちの叫び」が、いまこころに響いてくるようです。

 どんな思いで病気と闘ってきたのだろうか?
 どんなにか 生きたかったと思っていただろうか?

 でも、縁が尽きれば、いのちを終わっていかなければなりません。

 人は必ず死を迎えることは誰しもが分かっています。分かっていない人はいないでしょう。
 では、人は何故死ぬのかを知っているでしょうか?
 病気になったから? 歳をとったから? いろいろと理由が出てくるかもしれませんね。

 答えは、生まれてきたからです。
 彼女が亡くなった理由も、生まれてきたからに他なりません。

 そして、生まれてこなければ、苦しむこともなければ死ぬこともありません。
 でも、それが生きているということではないでしょうか?
 生きるとは、自分の思うようにはならないものです。
 しかし人は、思うようにならない人生を、何とか思うように生きたいと願うものです。
 でも結局は、願うようにはなかなか生きられません。
 そこに私たちの苦しみが生まれてくる大きな要因があるのです。

 今、宗教というと、自分の願いや都合を叶えてもらうものと思っている方がどれだけいるでしょうか。
 願いを叶えてもらえるならば…。
 病気が治るならば…。

 確かに、そうなればこれほど嬉しいことはありませんね。
 でも、先ほど言ったように、思うようにはなかなかなりません。
 思うようにならない苦しい時でも、力強く生きる力を与えてもらえるのが宗教なのです。

 この方は、信仰とは救われることであり、支えであり、目覚めであり、今日一日生かされていたことへの感謝であったと言いました。
 そのことにより、毎日の辛い治療に耐え、病と闘いながらも人生を恨むことなく、公開せず、ましてや不幸を他人のせいにすることなく、最後まで明るく笑顔と感謝の中で人生を生き抜いたようです。

 いつ私たちが、病になり、いのちが終わるか分かりません。
 まさに今、私たちが思いもよらない人生のまっただ中にいます。
 どのような生き方になっても

 いつでも、どんな時でも 「私が私であって良かったと言える」 生き方を歩んでいますか?

2005年1月16日日曜日

「氷を溶かす あたたかな ひかり」 帯広市 帯広別院 中嶽真教

 先日、十勝の糠平湖へ行ってまいりました。1月にもなると湖面は厚い氷に閉ざされます。私の実家は近畿地方なので、湖に一年中氷が張ることはありません。そんな私ですから人間が乗ってもびくともしない氷の厚さには本当に驚かされました。ここの氷は春になればまた溶け出してもとの湖に戻るわけですから、季節の移り変わりのエネルギーを考えると驚かされます。

 人間の心も氷のようなものかなと、ふと思いました。

 この社会は、煩悩、欲望、憎悪と気苦労が絶えません。そんな杜会で生活している私たちの心はいつしかこの氷のように固く、冷たいものになっているのではないでしょうか? この氷はなかなか解けるようなものではありません。むしろ、どんどん硬く、冷え切ったものへと変化してゆきます。

 こんな冷え切った心を唯一溶かしてくれるのは、阿弥陀さまのおひかりなのです。

 春の日差しがゆっくりと氷を溶かしてゆくように、阿弥陀さまの智慧と慈悲の光が私たちの迷い、苦悩を照らし出してくださいます。そして、ゆっくりゆっくり、凝り固まった心をとかしてくださいます。

 私たちは、そんな、いつも働きかけてくださる阿弥陀さまのお力に気付かせてもらい、日々お念仏を味わって生活させて頂きたいものです。

2005年1月1日土曜日

「五濁悪時群生海 応信如来如実言」 帯広市 帯広別院 輪番 立森成芳

 明けましておめでとうございます。みなさまおそろいで、新年をお迎えのこととおよろこび申し上げます。

 それにしても、昨今の騒々しさはどうしたことでしょう。テロ・報復・殺人・誘拐・拉致、そして政界・財界・警察の汚職と、耳目を覆いたくなることばかりです。「五濁悪時群生海」[ごじょくあくじぐんじょうかい]との『正信偈』[しょうしんげ]のお言葉は、今日の世相にぴったりです。

 五濁とは、劫濁[こうじょく]・見濁[けんじょく]・煩悩濁[ぼんのうじょく]・衆生濁[しゅじょうじょく]・命濁[みょうじょく]を指し、劫濁とは時代そのものが濁っていることで、戦乱・疫病・災害・飢饉などがしきりに起こって、まさに乱世の時代のことであります。

 見濁とは、邪悪な考えがはびこり、正しい道理が通らない状況をいいます。

 煩悩濁とは、自己中心的に物事を考え、順調にいけばむさぼりとなり、順調にいかなければいかりとなり、やがて愚痴に明け暮れる心の濁った状況をいいます。

 衆生濁とは、精神的・肉体的に衰弱して、無気力になって、苦悩ばかりが広がる状況を言います。

 命濁とは、生き甲斐を感じられなくなり、寿命が次第に衰えていく状況をいいます。命があっても輝きを失って、漫然と生きている状況でしょう。

 このようにして、人々の身も心も環境も、世界全体が濁りきった混乱の状況を呈していることを五濁といったのであります。

 争いの絶えない世界になるという劫濁。そして間違った考え方がはびこるという見濁。自己中心の我欲がはびこるという煩悩濁。人間の性質が低下していくという衆生濁。人間の寿命が濁って萎縮してしまうという命濁。これはまさに地獄・餓鬼・畜生の様相です。

 悪業[あくごう]は悪業を呼んで、ひたすら五濁の海に沈没[ちんもつ]していくところには、しょせん安らぎも歓[よろこ]びもありません。ただあるのは苦悩・苦痛・苦悶だけです。

 出口のない暗闇の世界を際限なくさまよう私たちに、「応信如来如実言」[おうしんにょらいにょじつごん] -まさに如来真実の言[ごん]を信ずべし- と、重大な方向を示されているのです。

 ひたすら如来のお言葉に会いなさい。耳を傾けて聞きなさいとのお諭[さと]しであります。