2006年10月16日月曜日

「「愚かさ」に気づかされる世界」 新得町 立教寺 千葉照映

 よしあしの 文字[もんじ]をもしらぬ ひとはみな

  まことのこころ なりけるを

  善悪の字しりがほは

  おおさらごとのかたちなり


 ようこそお電話くださいました。十勝組[とかち - そ]テレホン法話です。

 ただいま、拝読いたしましたご和讃は、親鸞聖人がお書きくださいました『正像末和讃』の終わりにお示しくださったものでありますが、これは、善悪という言葉をも知らない人にこそ、まことの心を持った人がおり、逆に、物事を知った顔をしている者に、うそ・偽りがあるという意味であり、親鸞聖人ご自身の深い反省でもあったと受け止らせていただいております。

 とかく学問や知識を身に付けると、すぐに善人顔をして人に見せたくなる、そういう心を戒められたと受け取らなければならないのではないでしょうか。

 京都大学の先生が次のようなことを言っておられます。
 愚かさには無限の広さがあり、また、無限の要素がある。
 愚かということはまったく能力がないということではなく、無限の可能性があるということであります。

 意外と判らないことを判ったつもりでいることが多いのではないでしょうか。大切なのはその判らない自分がここにあることを判る……愚かな者であったということを本当に自覚することであります。

 そういう自分に気づかされたところに無限の可能性が秘めているというのであります。

 親鸞聖人の書かれた書物の多くに「愚禿親鸞」[ぐとく - しんらん]と書かれております。

 これは、わたくし親鸞は他の人と比べて愚かと言ったのではありません。真実の教えに出遇[であ]って初めて、自分は愚かものであったと知らされたのであります。

 その真実なるものこそ、南無阿弥陀仏のみ教えだったのであります。

 今まで自分の知識、自分の力を頼りとして生きてきた親鸞聖人でしたが、阿弥陀仏のみ教えに出遇い、自分の愚かさに気づかされたのであります。

 本当の「愚」になるということは、「愚」、おろか、「賢」、かしこい、ということをすべて投げ捨て、そういうことにとらわれない、そこに真実の宗教の世界が開けてくるのではないでしょうか。

 お電話ありがとうございました。担当は立教寺、千葉照映がさせていただきました。

2006年10月1日日曜日

「「世の中安穏なれ、仏法弘まれかし」~ともに輝く世界へ~」 音更町 報徳寺 住職 佐藤誠

 本願寺出版社発行の『伝道』65号の中に、今は亡き作家の司馬遼太郎さんの講演に、次のような味わい深いお話が書かれてあった。

 アフリカのある国に青年海外協力隊として派遣された青年が、現地の若者と親友になった。ある日のこと、二人で宿舎を出て農場へ向かう道すがら、その親友が言ったというのである。

 「今は若い僕たちも、やがて老人になり、そして死ぬだろう。いったい人間は何のために生まれてきたのだろう。そして、死ねばどうなるのだろう。」

 日本人青年は内心非常に驚いた。未[いま]だかつて考えたこともない問いだったのである。

 「若きとき仏法はたしなめ」といわれる。以来彼は自らの上に日々、この問いを持ち続けているという。

 30数年前の思い出である……と。そしてまた普賢先生の

 「人生は邂逅[かいこう]と別離の繰り返しであると思う。生命がつき、それのみで終わってしまったら寂しいことだと思う。命ある限り精一杯行き通し、その果てに何があるのか。お念仏申す者にはお浄土がめぐまれてある。このことを蓮如上人様は「後生の一大事」といわれているのである。娑婆[しゃば]の別れには、あとさきがあることはいかんともなし難い現実である。しかし再びあいまみえる賑[にぎ]やかなお浄土がめぐまれているのである。」

 ……と。

 「本願を信じ念仏を申さば仏になる」
 「世の中安穏なれ 仏法弘まれかし」
 「ともに輝く世界へ」

 のとも、共々に一歩一歩、歩んでまいりましょう。