2006年4月1日土曜日

「五濁悪世」 幕別町忠類 東光寺 豊田信之

 現代の世相は、自己主張と相手に責任をなすりつけようとする姿勢があまりにも目立つような気がします。真と偽、本物と偽物を見分けることができなくて、右往左往している姿が見受けられます。近頃も、偽メール問題とかで世間を騒がせて、報道を賑わせたのは周知の通りです。

 世間が悪くなってゆくありさまを「五濁悪世」[ごじょくあくせ]と、『阿弥陀経』というお経には説かれています。時代、世相全般が濁ってくるというのです。それは自己中心的思考が蔓延し、それを正当化したり行動化していることであり、人間の器量を小さくしていきます。

 このように自己中心的な人間が集まって生きてゆくのですから、人間のみならず万物のいのちの尊厳を考えることが出来なくなり、さらには人間自体のいのちさえも大切にかんがえられなくなってしまいます。「五濁」とは、我執[がしゅう]によって引き起こされる「いのち」に対する軽視であり、それは万物の生存を脅[おびや]かす脅威といえましょう。人間が自身の浄化作用を完全に失った、傲慢[ごうまん]で愚かな姿であります。まさに現代を思うとき、社会全般に対して、また自分自身に対しても「五濁悪世」のことばがこころに深く突き刺さります。

 このような「五濁悪世」たる私が、阿弥陀さまのご本願を信じること一つで現生[げんしょう]に正定聚[しょうじょうじゅ]の位[くらい]に定まるとおすすめくださるのが、南無阿弥陀仏の「み教え」です。阿弥陀さまの浄土に生まれて無上涅槃をさとらしめる、と説かれます。その利益[りやく]を現生[げんしょう]、今の世から語るならば、信心の行者とは阿弥陀さまの本願の智慧をたまわった者であり、正しく成仏に決定[けつじょう]した正定聚の位に定まった者となります。具体的には「五濁悪世」と教えられた「濁悪」[じょくあく]の現実を自覚して、自他ともに如来の智慧によって浄化されつつ浄土に向かっての仏道を生き抜くことでありましょう。

 次のような文章に出あいました。味わってみてください。

 笑顔で感謝し合って毎日を生きる
 そこに仏様の願われた世界がある

 合掌してお陰様でと頭を下げる
 そこに仏様がおみえになる

 笑顔で感謝し合って毎日を生きる
 そこに仏様の世界がある

 合掌してお陰様でと頭を下げる
 そこに仏様はお見えになる



 南無阿弥陀仏。