今年もいよいよ残りわずかになりました。カレンダーが一枚一枚取り除かれるたびごとに、月日の流れの速さを身に沁みて感じられます。
11月中旬頃より「喪中につき…」というハガキが毎日何通か送られてきます。そうした中でいつも驚きを感じますことは、今年も恵まれて賜[たま]わったいのちをいたゞいたということです。いつ死んでも不思議でないいのちを今日ももいたゞき、今年も終わろうとしていますが、生かされている我が身の不思議さをあらためて感じさせて頂いております。
私どもは、お互いに死の問題をタブー視し、考えたくないと目を覆[おお]っていますが、お念仏の「み教え」の上から味わってみますと、死こそ総[す]べての人が避けて通ることのできない必然の問題であり、正こそ偶然の問題なのです。しかも、老少[ろうしょう]は不定[ふじょう]であり、無常は迅速なのです。死はいつの場合でも私どもの「はからい」に妥協してはくれません。待ったなしなのです。ここに生きることの厳しさと尊さがあるのではないでしょうか。
仏法にご縁がなければ、生きているのが当り前と受けとめ、死は偶然・思いがけないこととしか受けとめることができません。
しかし、仏法的感覚からいたしますと、死こそ必然であり、反面、生は偶然なのです。
このとに目覚めさせられてみれば、お互いに今日一日、現在ただいま、生かされていることの大きな感動とよろこびを、み教えの上から感じさせていただかなければなりません。
我が身自身の死を見つめ、無常を観ずるということは、絶えず「生かされていることの尊さと意義を見つめよ」という仏さまからの働きかけなのです。そしてただ一度の人生、代わることも代わられることもできない、大事なお一人おひとりの人生の本当のいのちの「ありか」をみつめさせて頂き、お念仏もろともにこの苦難の人生を力強く歩ませて頂く、このことこそ、親鸞さまが私どもに語りかけて下さっているのではないでしょうか。
まあ、このことを蓮如さまは「生死[しょうじ]の一大事」とお示し下され、「仏法には明日ということはあるまじき由[よし]の仰[おお]せに候[そうろう]」とおっしゃったお言葉を、年末をひかえお互いがきびしく受けとめたいと思います。
どうぞお念仏とともに、よいお年をお迎え下さいませ。