「慌ただしい」という字は「りっしんべん(心)」に「荒れる」という字でできています。
「りっしんべん(心)」に「亡びる」という字を並べると「忙しい」という字になりますし、「心」を下に書くと「忘れる」という字になります。
「忙しい、忙しい」の生活は、大切なものを荒らし、亡ぼし、忘れさせている生活です。こういうときほど、静かに自分を見つめ、一年を振り返ることが大切なのではないでしょうか。
井村和清氏は前途を嘱望された若い医師でしたが、右膝に悪性腫瘍[しゅよう]が発症し、残り少ない生であると知らされます。彼は、この世で迎える最後になるであろう昭和54年の正月に、家族への新年の贈り物として「あたりまえ」という詩を残されています。
あたりまえ
こんなすばらしいことを
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ
仏さまの光に照らされて、あたりまえじゃなかった、「有り難い・おかげさまの人生」であったと知らされるのではないでしょうか。