親鸞聖人の正信偈の終わりの方に「生死輪転の家」(しょうじ りんでん の いえ)というお言葉があります。
「生死」[しょうじ]とは迷いということで、迷いの中を「輪」のように「転」がっている「家」に住んでいる、ということで、現実の私たちのすがたを示しています。
迷いということで、仏教では「六道」[ろくどう]ということが示されてあります。つまり、地獄[じごく]・餓鬼[がき]・畜生[ちくしょう]・修羅[しゅら]・人間[にんげん]・天上[てんじょう]のことです。
そしてこれらは死後にある世界のことではなく、「六道」とありますように、六つの道であり、道というのは私が歩くところであります。
地獄道・餓鬼道・畜生道を特に「三悪道」[さんまくどう]と示され、阿弥陀さまの救いの目当てである私のすたがのことといただきます。親鸞聖人は、ある時には地獄の道を歩き、ある時には餓鬼の道を歩き、またある時には畜生の道を歩き、その境界を一歩も出ることができない、私の現実のすがたを「還来生死輪転家」[げんらいしょうじりんでんげ]と示されているのです。
腹を立て、怒りの中でものを言い、行動している時は、地獄の道を歩いているのです。鬼のように顔を赤くしたり青くしたりして人を裁き、苦しめてはいないでしょうか。そして、そういう自分が自分で見えないのが凡夫[ぼんぶ]であることの「証」[あかし]なのです。
「同時多発テロ」から始まった報復戦争、それに続くイラク戦争。怒りは、怒りによっては決して解決されないのであって、寄ればますます怒り・憎しみを深くし、多くの人々を苦しみのどん底に追い込んでいくことにしかならないのです。地獄の道を歩いている私たちのすがたです。
餓鬼道というのは、欲しい欲しいと貪[むさぼ]り続ける私たちの現実のすがたです。危機一髪のところで助かった人が「命さえあれば良い」と言っていたのが、時間が経つにつれ、「お金さえあれば」「家さえあれば」となれば、それは限りなく欲がふくらんでいくことになります。新聞に出ていた川柳に、【泣きながら 良い方を取る 形見分け】とあったのを見た時、なるほど餓鬼の道を歩きつづけている私たちのありようを教えられたように思い、また、悲しくもありました。
畜生の道を歩くすがたというのは、「おかげさま」が見えないすがたです。蓮如上人は、世の中のすべてを如来さまからの賜[たまわ]り物と示され、世の中に我が物というものは何もないのであって、自分の命も如来さまから頂いたものだと示されてあります。お店で魚や野菜を買えば、それを私たちは我が物にしていないでしょうか。魚や野菜には、私たちは一円も払ってはいません。また、子どもを「我が子」として我が物にしてはいないでしょうか。親は子どもによって親にならせて頂いているのです。人間関係の中で「おかげさま」を忘れてしまえば、人をすべて「もの」にし、「いのち」の通わない世界を作っていきます。まさに差別・いじめ等は、畜生の道を歩いている私たちが作っている現実ではないでしょうか。
阿弥陀さまの救いの目当てである三悪道[さんまくどう]のものは、今の私自身のことであると思い知らされることです。
そして同時に、阿弥陀さまのお心の深さ・広さに頭が下がり、お念仏を申し、そのお徳をほめたたえずにはおれないことです。