2002年9月16日月曜日

「かけがえのないいのち」 芽室町 願恵寺 藤原 昇

 今年の8月5日(月)に、願恵寺 仏教子ども会をさせていただきました。そのときに、私の子どもも含めて14人の子どもを前に、お話をしました。

 話をする前に、大きな紙に

 青色青光[しょうしきしょうこう]
 黄色黄光[おうしきおうこう]
 赤色赤光[しゃくしきしゃっこう]
 白色白光[びゃくしきびゃっこう]


 と、漢字と、その読みがなを書いて、全員が見える場所に貼りました。その後で話を始めました。

 『仏説阿弥陀経』[ぶっせつ あみだきょう]というお経のなかに、「青色青光[しょうしきしょうこう]黄色黄光[おうしきおうこう]赤色赤光[しゃくしきしゃっこう]白色白光[びゃくしきびゃっこう]」ということばがあります。これは「阿弥陀さまのお浄土には蓮[はす]の花があり、青い色には青い光、黄色い色には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光が、それぞれに放たれており、みんな違う色のままにかがやいています」という意味です。

 お釈迦さまは、阿弥陀さまのお浄土には、青い色には青い光、黄色い色には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光があるとおっしゃるのです。

 そして、どんな色でも、良いとか悪いとかはなく、すべてがそのままで、みな美しくかがやかせる光で、いま私たちのところに「なもあみだぶつ」と、とどいていると説かれるのです。

 皆さんは、あの子は背が低いだとか、太ってるだとか、頭が悪いなどといってばかにしたり、反対に背が高く、頭が良くて足が速い人をうらやましがったりすることをしてはいませんか?

 背の低い人も高い人も、やせた人ふとった人、勉強のできる人できない人、足の速い人おそい人、ほんとうはそれぞれが、それぞれのままにみんな輝いているのです。

 皆さんは、ひとりひとりが、入れ替えたり交換したりすることの出来ない、かけがえのないいのち、すばらしい いのちを生きているのです。

 阿弥陀さまは「なもあみだぶつ」という言葉になって、いつも私たちに

 「あなたは あなたのままで いいんだよ、安心して一生懸命あなたの命を生きなさい。私がいつも見守っているからね」

 と、やさしく言ってくださっているのです。

 今日ここに来てくれたみなさん、これからも、かけがえのないいのち、すばらしい いのちを生きていってください。

 これから最後に、金子みすゞという人の詩を読みますので、静かに聞いてください。
 (と言い、次の詩を二度繰り返して読みました。)

  私が両手をひろげても
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面(じべた)を速くは走れない。

  私がからだをゆすっても、
  きれいな音は出ないけど、
  あの鳴る鈴は私のように
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。


 この後、子どもたちは皆元気に帰っていきました。

 子どもたちばかりではなく、皆さん一人一人が、これからも、かけがえのないいのち、すばらしい、いのちを生きていってください。そしてお念仏する日々をお過ごしください。

2002年9月1日日曜日

「お彼岸に、今一度自分自身を問う。」 清水町 妙覚寺 脇谷暁融

 あっという間に夏が過ぎ去って行き、すでに9月。まもなく秋のお彼岸を迎えるような時季になりました。今年の夏は気温の上がり下がりが多く、健康などの気遣いが多い時季でもありました。皆さんはお変わりないでしょうか。

 時季ながら「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、にわかに夕方の暮れなずむ時間が早くなりました。お彼岸は「おさとり」の「彼[か]の岸」と書いて「ひがん」と読ませます。つまり、こちら側に立って向こう岸を示した表現、おさとりの世界、お浄土の世界を示します。

 お彼岸の行事は、日本独特のものですが、昔の人々が、日々生活に追われる慌ただしい中から、自分を振り返り、省みることのできない私自身を心配して、この「いのち」について考え、「私」とは何かを問う大きな機会を作ってくださるのが、お彼岸の間に参らせていただく最も大事なご縁です。

 「食べものの味も、仏縁も、若いときに味わっておくと、年をとってから帰ってくるもの」という味わいを語ってれた方がおられました。それはまさに、当を得た表現ではないでしょうか。仏法を通して、ご法座に参らせていただくことは、やがて人生の孤独や虚しさを超えて、真実の楽しみや心のうるおいや味わい、私自身の姿やありようを、必ず示してくださるにちがいありません。

 「今日の一日よりも若い日はない」と理屈では十分わかっていながら、なかなかできない私がここにいます。自分にとっていちばん若い日、それが今日という日であるという事実に、きちんと納得ができるならば、仏法を聞きたく思う「今日」、「いま」こそが「旬」であり、若いときとも言えるのではないでしょうか。

 私たちは、お彼岸を通して、届けられている阿弥陀如来の呼び声に、一度耳を研ぎ澄ませ、共々によろこびをもって「今」を生きて抜いていきたいものです。

 今一度、自らを南無阿弥陀仏のお念仏によって問うていく暮らしでなければなりません。