2006年11月1日水曜日

「あらゆる人々はみな如来の子」 帯広市 南豪寺 住職 竹中偉晃

 11月は朝夕の寒さもますます増し、木々は枯れ葉も落ち、秋はなにかしら物悲しい、寂しい季節と言えます。しかし秋は稔[みの]りの季節でもあります。稔[みの]りがあれば収穫があり、それは「いのち」へとつながっていきます。真宗法語カレンダーの11月に次のことばが載っていました。

 人生は、聴聞を続けることで、広く深くなる


 と。

 阿闍世王は、父王を殺害した罪の報いを恐れて苦しみ抜いていました。しかし、お釈迦さまより南無阿弥陀仏[なもあみだぶつ]の教えを聞き、他力の信心をいただきました。そこで、今までの世界が一変したのです。阿闍世は次のようにもうします。

 如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。

 よく知るがよい。

 あらゆる人々はみな如来の子なのである


 聴聞をするまでの阿闍世にとって、自分以外の人々はどのように見えていたのでしょうか。おそらくは、虫けら同然であったことでありましょう。そのような世界の中では大変な孤独感が彼を襲ったことでありましょう。暗い狭い世界の中で孤独な人生を送っていたと思われます。それが、自分を含めてすべてが仏の子であると知ったのです。暗闇[くらやみ]の中から光の中へと、彼[か]の世界が大転換をしたのです。

 続けて阿闍世が申します。
私はかつて悪知識[あくちしき]に遇い、過去・現在・未来にわたる罪をつくった。いま仏[ほとけ]の前にこれを懺悔する。願わくは ふたたびこのようなつみをつくるまい。願わくはあらゆる人々が菩提心[ぼだいしん]をおこし、すべての世界の仏方[ほとけがた]を心にかけて常に念じてほしいと思う


 と。

 欲も怒りも無くならない私が、聴聞によってお念仏のおみのりをいただき、お浄土へ往生まちがいなしとする、阿弥陀さまのお心を、一生涯、聞かせていただくことが大切です。

2006年10月16日月曜日

「「愚かさ」に気づかされる世界」 新得町 立教寺 千葉照映

 よしあしの 文字[もんじ]をもしらぬ ひとはみな

  まことのこころ なりけるを

  善悪の字しりがほは

  おおさらごとのかたちなり


 ようこそお電話くださいました。十勝組[とかち - そ]テレホン法話です。

 ただいま、拝読いたしましたご和讃は、親鸞聖人がお書きくださいました『正像末和讃』の終わりにお示しくださったものでありますが、これは、善悪という言葉をも知らない人にこそ、まことの心を持った人がおり、逆に、物事を知った顔をしている者に、うそ・偽りがあるという意味であり、親鸞聖人ご自身の深い反省でもあったと受け止らせていただいております。

 とかく学問や知識を身に付けると、すぐに善人顔をして人に見せたくなる、そういう心を戒められたと受け取らなければならないのではないでしょうか。

 京都大学の先生が次のようなことを言っておられます。
 愚かさには無限の広さがあり、また、無限の要素がある。
 愚かということはまったく能力がないということではなく、無限の可能性があるということであります。

 意外と判らないことを判ったつもりでいることが多いのではないでしょうか。大切なのはその判らない自分がここにあることを判る……愚かな者であったということを本当に自覚することであります。

 そういう自分に気づかされたところに無限の可能性が秘めているというのであります。

 親鸞聖人の書かれた書物の多くに「愚禿親鸞」[ぐとく - しんらん]と書かれております。

 これは、わたくし親鸞は他の人と比べて愚かと言ったのではありません。真実の教えに出遇[であ]って初めて、自分は愚かものであったと知らされたのであります。

 その真実なるものこそ、南無阿弥陀仏のみ教えだったのであります。

 今まで自分の知識、自分の力を頼りとして生きてきた親鸞聖人でしたが、阿弥陀仏のみ教えに出遇い、自分の愚かさに気づかされたのであります。

 本当の「愚」になるということは、「愚」、おろか、「賢」、かしこい、ということをすべて投げ捨て、そういうことにとらわれない、そこに真実の宗教の世界が開けてくるのではないでしょうか。

 お電話ありがとうございました。担当は立教寺、千葉照映がさせていただきました。

2006年10月1日日曜日

「「世の中安穏なれ、仏法弘まれかし」~ともに輝く世界へ~」 音更町 報徳寺 住職 佐藤誠

 本願寺出版社発行の『伝道』65号の中に、今は亡き作家の司馬遼太郎さんの講演に、次のような味わい深いお話が書かれてあった。

 アフリカのある国に青年海外協力隊として派遣された青年が、現地の若者と親友になった。ある日のこと、二人で宿舎を出て農場へ向かう道すがら、その親友が言ったというのである。

 「今は若い僕たちも、やがて老人になり、そして死ぬだろう。いったい人間は何のために生まれてきたのだろう。そして、死ねばどうなるのだろう。」

 日本人青年は内心非常に驚いた。未[いま]だかつて考えたこともない問いだったのである。

 「若きとき仏法はたしなめ」といわれる。以来彼は自らの上に日々、この問いを持ち続けているという。

 30数年前の思い出である……と。そしてまた普賢先生の

 「人生は邂逅[かいこう]と別離の繰り返しであると思う。生命がつき、それのみで終わってしまったら寂しいことだと思う。命ある限り精一杯行き通し、その果てに何があるのか。お念仏申す者にはお浄土がめぐまれてある。このことを蓮如上人様は「後生の一大事」といわれているのである。娑婆[しゃば]の別れには、あとさきがあることはいかんともなし難い現実である。しかし再びあいまみえる賑[にぎ]やかなお浄土がめぐまれているのである。」

 ……と。

 「本願を信じ念仏を申さば仏になる」
 「世の中安穏なれ 仏法弘まれかし」
 「ともに輝く世界へ」

 のとも、共々に一歩一歩、歩んでまいりましょう。

2006年9月16日土曜日

「役にたつという見方」 音更町 光明寺 臼井公敏

 昨今の、人間が人間を殺めているというニュースや、脳死や臓器移植、また遺伝子操作問題など、現代は「いのち」を見失った時代だといわれています。

 現に私たち自身が、「いのち」を見失った生き方をしていないでしょうか?

 それは世間の価値観や、損や得、役にたつか立たないかという見方で、「いのち」を軽く見ていないか? ということであります。

 たとえば会社の社長が、「お前はとても大切な人間である」といった場合と、親が子に「お前はとても大切な人間である」といった場合、同じ大切な人間であっても内容は全く違います。

 会社の社長が、「大切な人間である」といったのは、会社にとって役にたつからです。利用価値があるからです。しかし病気等で仕事が出来なくなった時、つまり役にたたなくなった時、会社からは「辞めてくれ」といわれるでしょう。それは、かけがえのない「いのち」として見ているのではないのです。取り替えがきくのです。目的を達成するための手段に過ぎないのであり、道具なのです。道具はまた消耗品であり、古くなればゴミなのです。

 しかし親が子に「大切な人間である」と言っているのは、役にたつ・役にたたないを超えて、その子の「いのち」を「いのち」として見ているのです。

 どんなに出来の悪い子どもであっても、親にとってかけがえのない「いのち」であり、取り替えができないのです。

 今、日本人は世間の価値観で、役にたつものと認め、役にたたないものは切り捨てていくという考えで、「いのち」を見ていることが多いような気がします。これは大変危険であり恐ろしいことです。高齢化社会といわれる今、老人の自殺も年々増えていますが、この「いのち」の見方が原因しているように思われます。全てを役にたつか役にたたないかという利用価値で判断してしまう習慣が身についてくると、自分自身さえもその価値基準でしか見られなくなってしまうからです。

 それ故に、役にたつた役にたたないかということを超えた、大きな広い「いのち」の世界があることに気づくことが一番大切なのではないでしょうか。

 担当は、木野、光明寺、臼井公敏でした。

(『聞法』を参考にさせていただきました。)

2006年9月1日金曜日

「「その内に」と過ごしている人生を見つめて」 幕別町 義教寺 梅原了圓

 日常生活の会話の中で、何気なくよく使用する言葉に「その内に」という言葉があります。私も知らず知らずの内に漬かっていることにふと気づかされます。自分のいただいている命の姿を正面から問うことなく、「まだまだ」との思いが常に自分の内にあることが知らされます。

 以前にこのようなことがありました。それは、小中学校時代の友人のご家庭で行われたご法事の折のことでした。その日は久しぶりの再会なので車では行かず、ご法事の後、しばしの間、美酒をいただきながら互いに幼き頃の思い出を交わし、楽しいひと時を過ごさせていただきました。そして、あまり長居をしてはご家族にご迷惑をかけると思い、彼が引き止めるのを断り、お酒を飲まない彼に自坊まで送っていただきました。別れ際に「その内にクラス会などでまた会おう」と約束を交わし別れたのでした。その別れが今生での最後の別れとも知らず、再会できるものと約束を交わし別れを告げた私でした。彼は心臓の病いにより、若くして急逝したのでした。

 彼の悲報を聞かされた時、悲しみと共に法事の折の彼の優しい言葉とその姿、「もう少しゆっくりしていっては」との誘いを断り別れを告げた自分が思い出され、「また必ず会えるもの」と別れを告げた自分に悔いるばかりでした。今も、「あの時もっと話を交わせばよかった」と悔いる私です。

 自分たちは若いから「まだまだ」との思いから「その内に」と別れを告げた私に、彼は自らの命をもって命のことわりを示して諭[さと]してくださいました。そして、「その内に」という先のばしの遅れが生涯の悔いとなることを、今もなお、この私に語りかけ続けてくれています。

 友人のことを偲ばせていただく時、学びの中で伝え聞いた親鸞聖人の仏門に入られる出家得度の折のお話が心にyかんで来ます。

 9歳にして出家得度された際、その式を行う京都青蓮院[しょうれんいん]の慈円和尚[じえんかしょう]が、「今から行えば夜半になるので明日にしては」と申されるのに対し、聖人は今から行って欲しいとの願いから

 明日ありと 思う心の 仇桜[あだざくら] 夜半[よわ]に嵐の 吹かぬものかわ


 と先人の歌を引用されその思いを伝え、和尚がこの決意に答えられて早速執り行い、無事得度の式を終えられたと伝えられています。聖人のお姿にあらためて偲び学ばせていただくものです。

 また、『蓮如上人御一代記聞書』[れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき]には、仏法をお聞かせいただくのに

 仏法には明日ということは あるまじきよしの仰せに候


 と記されています。明日があるかどうか不確かな命をいただいている私が「明日がある」と思い、命の姿を見失った「その内に」を繰り返す生き方に陥っていることをまことに厳しくお諭しくださっています。

 如来さまのお諭しのもと、今生かされている命に目覚め、歩みを大切にいただける人生に一歩でも近づけたならと願うものです。
合掌

2006年8月16日水曜日

「お盆と、浄土真宗のおみのりと。」 音更町 妙法寺 石田智秀

 なまんだぶつ、なまんだぶつ。

 今年のお盆も、無事に、終わりました。お盆は、どのようにお過ごしでしたか。ご家族や親しい方と、ご一緒に過ごすことは出来ましたでしょうか。お寺やお墓に、お盆参りに行くことはできましたでしょうか。

 今日は、お盆にちなみながら、わたしたちのいただいている、浄土真宗という真実の「み教え」を、味わってみたいと思います。

 一般にはこのように言われているのだそうです。つまり、お盆になると、すでに亡くなられているご先祖さまや、親しかった方、ご家族の方たちが、あちらの世界から、こちらの世界に帰って来られる、と。

 そして、お盆が終わると、その方々はまた、あちらの世界に戻って行かれる、と。

 こちらの世界と、あちらの世界。

 こちらの世界はココ、この世だと思います。では、あちらの世界って、どこなのでしょう。

 あちらの世界って、きっと、お浄土だと思うんです。

 でも、わたしたちのご先祖さまや、親しかった方、一緒に暮らしていた方々は、お盆の間だけ、お浄土から、こちらにいらっしゃるのでしょうか。

 いいえ、そんなことはありません。お盆の間はもちろんこちらにいらっしゃいますけれど、お盆じゃなくても、いつでも、こちらにいらっしゃるんです。

 ヘンなことを言っているように聞こえるかもしれません。でも、本当なんです。先にお浄土にいらっしゃった方たちは、お盆の間だけこちらに帰ってくるのではないのです。

 お盆の間だけではなく、私たちがお念仏を称[とな]えさせてもらうとき、いつでも、わたしたちとともに、わたしたちと一緒にいてくれるんです。

 どうしてそんなことが言えるのか。

 どうしてそんなことになるのか。

 その理由は、わたしにはわかりません。

 でも、理由はわからなくても、阿弥陀さまはそのように誓われています。そして阿弥陀さまはその誓いを、そのあっま現実に反映させてくださっているのです。

 阿弥陀さまは、わたしたちが阿弥陀さまの真実の「み教え」を聞かせていただいて、聞いたままを聞いたとおりに、「ああ、そういうものなのだなあ‥‥」といただけば、それがわたしたちの救われていくすがたえである、と、示してくださいました。

 ご先祖さまや、親しかった方、そして、一緒に暮らしていた方たちは、阿弥陀さまによって、真実の救いと出遇うことができました。

 いまわたしが称えさせていただくお念仏には、その方たちがとけ込んでいます。

 お盆だけでなくても、いつでも、どこでも、お念仏を称えると、その中に、ご先祖さまや、親しかった方、一緒に暮らしていた方と出遇うことができる、そのような世界が広がっているんです。

 わたしたちは、わたしたちが救われるために、阿弥陀さまの教えを聞くのではありません。わたしたちが阿弥陀さまの教えを聞かせていただくのは、わたしたちが救われるために必要なことではないのです。

 わたしたちは、救いがわたしたちのために、もう間に合っている、そのことを聞かせていただくのです。

 わたしが聞くことが、わたしの救いの条件なのではありません。

 わたしの救いは、わたしが聞かせていたくより前に、すでに届いているということを、聞かせていただくばかりなのです。

 先にお浄土に行かれた方々は、お盆の間だけ、お浄土から帰って来てくださるのでは、実は、なかったのですね。

 わたしたちが阿弥陀さまの教えを聞かせていただき、お念仏を申させていただく。

 そのとき、わたしたちと常にともにいてくださるのです。

 今日は、お盆にちなんで、わたしたちが救われていく、真実の「み教え」である、浄土真宗を、味合わせていただきました。

 なまんだぶつ、なまんだぶつ。

2006年8月1日火曜日

「ろうあ者に学ぶ」 新得町 立教寺 千葉玄昭

 私の住んでいる新得町には、授産施設や、老人ホームなど、聴覚障害者の人たちが約200名生活しておられます。この人たちとお話しする時は、私たち健聴者が話す言葉では通じません。「手話」を使って初めて言いたいことが伝えられます。約30年間、この人たちに手話を習い、どうにか、こっちの言いたいことが伝えられるようになりましたが、まだまだ勉強不足で、十分に意図するところを伝えることが難しく苦悩しております。

 例えば、教行信証[きょうぎょうしんしょう]、親鸞聖人[しんらんしょうにん]、蓮如上人[れんにょしょうにん]、信心[しんじん]、他力廻向[たりきえこう]と言っても、チンプンカンプン、ごく一般的な仏教を説くのに精一杯です。

 でも人情厚く、とても笑顔の多い人たちです。私が訪問すると、手を合わせ木魚を打つ仕草をして、仏さまのお守りをする人、仏さまにお参りをする人として、笑顔で迎え手を差し出されます。私は一人一人の手を、しっかり握り、また時には、「ホホズリ」などもして、「元気かね?」「具合の悪いところはないかネ?」と尋ねます。「大丈夫、元気だよ」との返事が返ってくると一安心です。

 広島・福岡・京都・新得と、全国にこうしたろうあ者専用の老人ホームが4ヵ所あります。施設入所者の交流会というのが、毎年開催されており、一昨年は新得で、昨年は広島で、私も参加させて頂きました。

 広島の「あすらや荘」の理事長は、酒井慈玄氏、同じ宗内(浄土真宗)の方で、龍谷大学(京都)の後輩ですが、この道では大先輩、新得の「やすらぎ荘」建設の時もいろいろとお世話になり、指導もして頂きました。

 手話の学習を続けているお陰で、「帯広グルッペ」「手と手」その他、音更、芽室等の友だちも出来ました。有難いことです。

 自分から頼まなくても、向こうから見守っていてくださる仏さま、如来さまの懐[ふところ]に抱[いだ]かれている毎日であることを、この人たちにも伝えるべく一生懸命努力しているつもりですが、どこまで理解して頂けたか? 如何にも「手話」は奥深く、また、ろうあ者の心底まで入りこむこおてゃ本当に難しいと感じています。

 お盆ですネ。私たちの先祖にも、こうした、言葉のない人がいたかも知れません。たとえ言葉がなくても、手で、心で、顔で、態度で念仏の教えは伝わるものと確信しています。

 信じ合えるところに、幸せが待っていてくれると思います。

 テレホン法話をお聞きいただき、有難うございました。

2006年7月16日日曜日

「無数の手」 豊頃町 大正寺 高田芳雄

仏教詩人の榎本栄一さんの『無数の手』という詩を紹介します。

 『無数の手』


   父母 縁者 恩人 師 友人

   忘れし人 知らぬ人にも支えられ

   なむ千手観世音さま


 榎本さんは、千手観世音菩薩の千本の手の一本一本の中に、自分を今日まで支え、生かしてくれている人の、はたらきを重ねて見つめているようです。

 この菩薩の手は、自分を産み育ててくれた父母の手。この菩薩の手は、縁あって自分と関わってくれた人の手。この菩薩の手は、自分に恩恵を施してくれた人の手。この菩薩の手は、自分を教え導いてくれた先生の手。この菩薩の手は、自分をいつも勇気付けてくれる友人の手。この菩薩の手は、自分はもう忘れてしまったけれどお世話になった人の手。この菩薩の手は、知らないところで自分を支えてくれている人の手。今まで、そしてこれからも無数の人々の手が、自分の命を支えてくれている。菩薩さまの手は人々の手でありました。まさに榎本さんの気づきの詩です。

 菩薩の千本の手は、菩薩が人々を救う、広く深く限りないはたらきを表すものでありますが、榎本さんは、菩薩の手の中に、自分を支えてくれている身近な人々、陰で自分を支えてくれている人々のはたらきを感じ取っておられます。すばらしい発見、気付きだと思います。

 仏や菩薩のはたらきとは、この自分を離れた遠くにあるのではなく、極めて近くにあるのです。

 お念仏申しましょう。阿弥陀さまはいつも私と一緒にいてくださいます。

合掌

2006年7月1日土曜日

「「おかげさま」の いのち」 中札内村 法念寺 加藤浩英

 ご縁をいただいて、少々お話をいたします。

 早いもので7月になりました。ふりかえってみますと、いろいろな事件や自然災害が各地で起きました。心からお見舞い申します。

 とりわけ、この1~2ヵ月の中で、子どもが放火をして親やきょうだいを焼死さすとか、母親が娘や近所の子どもを殺すという想像もつかぬ大事件もありました。これらのことは私たちの心に傷をつけ悲しいことでした。

 人にはそれぞれ生き方があり、ご縁によりいろいろなことにも出会います。

 「自分の力で生きているように思っているが、本当は生かされているのだ」ということをよく聞きます。確かにその通りです。私たちがいくら利金でも空気や水がなければ、多くの方のおかげや、多くの物の恵みがなければ、一日たりとも生きることは出来ません。

 私たちは「生かされて生きている」のです。この生かされて生きている「いのち」を生ききることが何よりも大切です。

 毎日の私自身のくらしをふり返ってみましても、どうもやるべきこともやらず、言うべきこともよう言わず、グズグズしている間に空しく月日が過ぎているというのが現実の姿ではないでしょうか。

 蓮如上人は『ご文章』の中で

 ただ、いたずらにあかし、いたずらにくらして、老のしらがとなりはてぬる身の、ありさまこそかなしけれ


 とおさとしになっています。

 多くの生きもののいるこの世界で、私たちは人間の世界に生まれました。そして、南无阿弥陀仏のみ教えに抱かれて日々を送らせてもらっているのです。

 萩女子大学の、河井とし子先生の本に次の詩がありました。

 朝、起きたとき、目が見えて下さる

 手足が動いて下さる

 気もち良く、小便が出て下さる。

 当りまえだと思っていることが、

 決して当りまえでなく、

 大きな おめぐみ と知った時、

 私は、

 おかげさまと手を合わせるのです


 多くのものや、目に見えないものに支えられて生きているよろこびと、「おかげさま」と手を合せ、もったいないことと頭を下げて生きていきたいものです。

 どうもありがとうございました。

2006年5月1日月曜日

「正しい心の統一」 音更町 浄信寺 御幸誓見

 正しい心の統一についてお話をさせていただきます。

 なぜ心の統一が必要なのでしょうか。昔から「水は方円の器にしたがう」といいます。円型の入れ物に水を入れますと水も円型です。四角い入れ物に水を移しかえますと、今度も水も四角い型になります。人間の心も同じことで、周囲の状況次第で心は美しくもなりますし、汚れもします。他からの影響をうけやすいのが心です。

 あなたが相手に対して、心にほほえみをもって接したら、相手の人もあなたに好意を持ちますし、あなたが、心に怒りを抱いて接したら、相手の人も不快感を抱きます。

 どんな小さなことであろうと、他人がしてくれたことにあなたが感謝の気持ちをもったら、相手の人もよろこびを感じます。

 このように、自分の心も相手の心も同じように変わってゆくものです。一日にどれほど心が変わってゆくでしょうか。少しもじっとしていません。心に落ち着きがありませんから、不安になったり、どうしたらよいのか迷ったりするのです。そして真の安らぎが少しもありません。

 ですから、真の安らぎを得るために正しく心を統一することが必要なのです。いわゆる精神統一です。精神統一をして、静かな心で仏のことをおもったり、無常の道理を考えたりしますと、心が純粋になり、正しい智慧を得ることができるからです。

 日常生活でも、心を静め、精神を集中することは大切なことです。そうすることによって物事を的確に判断することができますし、仕事などにも専念することができます。欲望にふりまわされて身をもちくずすことがなくなります。

 明鏡止水[めいきょうしすい]といいます。曇りのない鏡のように、澄みきった水面[みなも]のように、心を平静[へいせい]にすることをいいます。

 また無念無想[むねんむそう]といいます。野球の選手が集中力を養うために禅の道場で座禅をした話を新聞で見たことがあります。150キロの猛スピードの小さな球が目の前を通るとき、一瞬の間にそれを打ち返さなくてはなりません。まさに真剣勝負です。そのためには集中力が必要です。集中力を養うために座禅で心をきたえたのです。

 このように、心を静めて集中した状態を仏教では「三昧」[さんまい]といいます。一心不乱に読書することを読書三昧といいます。俳句や囲碁を楽しむことを道楽三昧といいます。読書によって心を落ち着かすことができますし、俳句や囲碁を楽しむことによって心に安らぎができてきます。

 ところが、本当に心の落ち着く方法は仏の教えを聞くことです。

 仏の教えを聞くと、自然に自己をふりかえって日暮らしをするようになりますし、他人の迷惑になることは少しでもつつしんで、他人に喜ばれるようなことをするように心がけます。欲望に振り回されて生きてきた私が、むしろ欲望をコントロールして、その欲望をよい方向に転化していくようになります。

 正しい心の統一をあなたも試みてください。

2006年4月1日土曜日

「五濁悪世」 幕別町忠類 東光寺 豊田信之

 現代の世相は、自己主張と相手に責任をなすりつけようとする姿勢があまりにも目立つような気がします。真と偽、本物と偽物を見分けることができなくて、右往左往している姿が見受けられます。近頃も、偽メール問題とかで世間を騒がせて、報道を賑わせたのは周知の通りです。

 世間が悪くなってゆくありさまを「五濁悪世」[ごじょくあくせ]と、『阿弥陀経』というお経には説かれています。時代、世相全般が濁ってくるというのです。それは自己中心的思考が蔓延し、それを正当化したり行動化していることであり、人間の器量を小さくしていきます。

 このように自己中心的な人間が集まって生きてゆくのですから、人間のみならず万物のいのちの尊厳を考えることが出来なくなり、さらには人間自体のいのちさえも大切にかんがえられなくなってしまいます。「五濁」とは、我執[がしゅう]によって引き起こされる「いのち」に対する軽視であり、それは万物の生存を脅[おびや]かす脅威といえましょう。人間が自身の浄化作用を完全に失った、傲慢[ごうまん]で愚かな姿であります。まさに現代を思うとき、社会全般に対して、また自分自身に対しても「五濁悪世」のことばがこころに深く突き刺さります。

 このような「五濁悪世」たる私が、阿弥陀さまのご本願を信じること一つで現生[げんしょう]に正定聚[しょうじょうじゅ]の位[くらい]に定まるとおすすめくださるのが、南無阿弥陀仏の「み教え」です。阿弥陀さまの浄土に生まれて無上涅槃をさとらしめる、と説かれます。その利益[りやく]を現生[げんしょう]、今の世から語るならば、信心の行者とは阿弥陀さまの本願の智慧をたまわった者であり、正しく成仏に決定[けつじょう]した正定聚の位に定まった者となります。具体的には「五濁悪世」と教えられた「濁悪」[じょくあく]の現実を自覚して、自他ともに如来の智慧によって浄化されつつ浄土に向かっての仏道を生き抜くことでありましょう。

 次のような文章に出あいました。味わってみてください。

 笑顔で感謝し合って毎日を生きる
 そこに仏様の願われた世界がある

 合掌してお陰様でと頭を下げる
 そこに仏様がおみえになる

 笑顔で感謝し合って毎日を生きる
 そこに仏様の世界がある

 合掌してお陰様でと頭を下げる
 そこに仏様はお見えになる



 南無阿弥陀仏。

2006年3月1日水曜日

「おおいに悲しみ おおいに喜び」 帯広市 仏照寺 藤本実

 ようこそ、お電話を下さいました。ありがとうございます。

 「お寺さんは悩みはないんでしょうね」とよく質問をされることが多いのですが、必ず、「吸った息を吐いている間は、悩みだらけですよ」とお答えをしております。皆さんの中には生きていることは楽しいことばかり、苦しみ、悩み、悲しいことは未だ経験したことがないとおっしゃる方がいるかもしれませんが、生きていくということは、悲しく、辛く、苦しいことが実に多いものです。

 お釈迦さまは、そのような人生の実相、本当の有様を「一切皆苦」[いっさいかいく]と示して下さいました。しかし、私たちはその悲しく、辛く、苦しいことが起こった時、出来る限りプラス思考に逆転したり、自分の人生から遠ざけようとする私を見抜かれて、悲しく、辛く、悲しいと思い悩む心の根本の原因は、「私の思いが、何一つ思い通りにならない」ことを苦しみとおっしゃっておられます。

 また、私たちは思ったり感じたりしたことを素直に表現することを良くないことと思ってしまい体裁を取り繕[つくろ]うことに翻弄[ほんろう]されて、本音を包み隠しながら生活しているように見えます。

 先日、若くしてご主人を亡くされたご婦人から尋ねられました。「いくら悲しんでも、ご主人は帰ってこないんだから、早く忘れてしまいなさい」とか、「未練が残るから、遺品はすべて処分してしまいなさい」と言われるそうです。「忘れない」と言われると、ものすごく辛い、でも、いつまでも泣いてばかりもいられない。どうしたらよいのですか、ということでした。そこで私は、「大切な方を亡くした時、悲しいのは当然です。ご主人のことを思って泣いたらいいんですよ。悲しむことは大事なことです」とお答えをしましたら、「泣いてもいいんですよね」と安心されたお顔を見せて下さいました。

 神戸児童連続殺傷事件で、小学校4年生の娘さんを殺されてしまった山下京子さんが書かれた著書『彩花へふたたび あなたがいてくれるから』の中に、

 私が無意識のうちに選択してた方法は、泣きたい時には大声で泣くという方法でした。愚痴や泣き言も、無理に留めないでいっぱい言います。誰かに寄り添いたくなったら、夫や友人にもたれかかります。自分の悲しみの感情に逆らわないことにしたのです。(中略)

 深く悲しむことができる人のみが、深い喜びと、深い怒りを知ることができるのだと、ようやく納得しつあるところです


 と。

 いかがでしょうか。阿弥陀さまの智慧に照らされて、私自身の命のあり方を知らされ、悲しい時には大声で泣き、苦しい時には、精一杯愚痴りながら、もちろん、嬉しいときには心から喜び、ありのままの私の人生を生きることが出来ます。

2006年2月1日水曜日

「「鬼は外!」の「鬼」とは‥‥?」 大樹町 光教寺 岩崎教之

 自分を正当化したり、責任を他人に転嫁したりして、ついつい自分を防御してしまうことがあります。毎日の日暮らしの中で誰しもよくあることです。自分が居心地のいい都合のよい場所、立場、空間に安住したいという防御意識があるからだと思います。それは、何よりも自分が一番大事であるという自己中心的な考え方からすれば当然なのかもしれません。実際問題、生計を立てて競争社会を生きていくためには仕方のないことだともいえましょう。

 しかしながら、このような日々の生活の中で、私たちは、常に自分が正しいという立場で、他の人を憎んだり、恨んだり、傷つけたりして生きているという事実を忘れてはいけないと思うのです。

 ご存知のように、「鬼は外、福は内」と言いながら節分で豆まきをしますが、その「鬼は外」は自分の心のありようを抜きにして「鬼」を外部におしやっている考え方です。ところが実は「鬼」はまさしくいつも私のこころのどこかにいて、いつ顔を出し、いつ化けて出て、困った行動に駆り立てるかもしれない私自身の迷える心そのものなのです。

 「自分を是とし、他を非とせめる」とは、単に自己中心的な考えに陥り、他をかえりみないというだけではありません。自分を是とする根拠も、他人や周りの出来事に影響されやすい不確かなものであると言えるのではないでしょうか。

 自分は自分、他人は他人というふうに絶えず分裂し対立し、また影響し合って存在しているのが人間の世界です。また時には自分の都合のいいように他人を利用したりするのも言うまでもありません。自分と他人の世界だから、好き嫌いという愛憎[あいぞう]や、善悪の分別が出てきます。そのような分別から、どうしても苦しみが生まれてきます。

 それでは、どうしたら自他の分別という束縛の苦しみの世界から逃れることができるのでしょうか。

 『歎異抄』[たんにしょう]に

 弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とす、としるべし。そのゆへは、罪悪深重[ざいあくじんじゅう]、煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の衆生[しゅじょう]をたすけんがための願にてまします


 と示されています。

 「真実の世界、自分の分別を超えた世界へ、あなたを救い出さずにはおられない。老いも若きも、善人も悪人も、すべての人を信心ひとつで真実の世界に救い出したい。」という阿弥陀如来の願いが、常に私たちにそそがれ、「南無阿弥陀仏」の喚び声[よびごえ]となっているのです。その喚び声が「鬼」のこころでいっぱいの私の耳に響き、私の身に届くとき、自他の分別を超えた世界、阿弥陀如来の真実の世界、阿弥陀如来の願いに目覚めさせられるのであります。