2006年9月16日土曜日

「役にたつという見方」 音更町 光明寺 臼井公敏

 昨今の、人間が人間を殺めているというニュースや、脳死や臓器移植、また遺伝子操作問題など、現代は「いのち」を見失った時代だといわれています。

 現に私たち自身が、「いのち」を見失った生き方をしていないでしょうか?

 それは世間の価値観や、損や得、役にたつか立たないかという見方で、「いのち」を軽く見ていないか? ということであります。

 たとえば会社の社長が、「お前はとても大切な人間である」といった場合と、親が子に「お前はとても大切な人間である」といった場合、同じ大切な人間であっても内容は全く違います。

 会社の社長が、「大切な人間である」といったのは、会社にとって役にたつからです。利用価値があるからです。しかし病気等で仕事が出来なくなった時、つまり役にたたなくなった時、会社からは「辞めてくれ」といわれるでしょう。それは、かけがえのない「いのち」として見ているのではないのです。取り替えがきくのです。目的を達成するための手段に過ぎないのであり、道具なのです。道具はまた消耗品であり、古くなればゴミなのです。

 しかし親が子に「大切な人間である」と言っているのは、役にたつ・役にたたないを超えて、その子の「いのち」を「いのち」として見ているのです。

 どんなに出来の悪い子どもであっても、親にとってかけがえのない「いのち」であり、取り替えができないのです。

 今、日本人は世間の価値観で、役にたつものと認め、役にたたないものは切り捨てていくという考えで、「いのち」を見ていることが多いような気がします。これは大変危険であり恐ろしいことです。高齢化社会といわれる今、老人の自殺も年々増えていますが、この「いのち」の見方が原因しているように思われます。全てを役にたつか役にたたないかという利用価値で判断してしまう習慣が身についてくると、自分自身さえもその価値基準でしか見られなくなってしまうからです。

 それ故に、役にたつた役にたたないかということを超えた、大きな広い「いのち」の世界があることに気づくことが一番大切なのではないでしょうか。

 担当は、木野、光明寺、臼井公敏でした。

(『聞法』を参考にさせていただきました。)

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