一昔前は人生50年といいましたが、今日では70年とも80年ともいう時代になってきました。"昔はよかった"と言われるご老人もいらっしゃれば、"長生きしてよかった"と現代を肯定する人もいます。いずれにしても、わが身の都合で、その時代を否定したり、肯定したりしているのではないでしょうか。ただ、人生50年といわれた時代は、今日のように、あれもこれも、したり見たりせねばならないというような忙しさはなかったようです。人生にかなりの余裕を持ちながら、しかもわが人生は50年なのだという、ある一線を引いて、充実した豊かな人生を送ろうと心がけていた人たちが多かったように思います。
いくら長生きしても、出会うべきものに出会って人生を終わらなければ、人間として生きたことにはならないのです。つまり、寿命は長さで計るべきものではなく、その人の人生における豊かさ深さでいうべきだということです。自分を深く見つめて、充実した豊かな人生を生きるためには、今私たちは、何をどうすればよいのでしょうか。
苦労せず生きてきた人は一人もいないはずです。要はその苦労が、その人をどのように育てたかということです。私はこのままで人生を終わってもよいのか、と自分を振り返ったとき、せっかくの苦労が無駄に終わっているとするならば、何か空しいものを感じることでしょう。
そのように"空しいなあ"と感じたなら、その空しさをどうしますか。まぎらすのであれば自分の趣味などがあるでしょう。又、最近では健康法が流行し、盛んになってきているのではないでしょうか。いかに健康で長生きし好きなことをしていても、自分の人生のなかにおいて大切なものに出会わなければ、人生を空しく過ごしてしまうことになるのではありませんか。その空しさを自覚する道は、仏の本願に会い、本願に生かされていく生活を始める以外にないのではありませんか。
親鸞聖人は
本願力にあいぬればむ むなしくすぐるひとぞなき
と和讃にうたわれています。本願力に遇[あ]うとは、聞法して本願を信じ念仏を申す人となることですが、ただ本願を信じられるようになったということではなく、すでに成就している本願の火が私の煩悩を燃やし続ける。充実した人生を生きるとは、そのように私の煩悩に本願の火がつき、負うべき課題をもち、それを問い続ける人生が始まるということではないでしょうか。