2005年6月16日木曜日

「本願力にあいぬれば」 帯広市 帯広別院 谷口昭栄

 お電話有り難うございます。十勝組テレホン法話でございます。

 一昔前は人生50年といいましたが、今日では70年とも80年ともいう時代になってきました。"昔はよかった"と言われるご老人もいらっしゃれば、"長生きしてよかった"と現代を肯定する人もいます。いずれにしても、わが身の都合で、その時代を否定したり、肯定したりしているのではないでしょうか。ただ、人生50年といわれた時代は、今日のように、あれもこれも、したり見たりせねばならないというような忙しさはなかったようです。人生にかなりの余裕を持ちながら、しかもわが人生は50年なのだという、ある一線を引いて、充実した豊かな人生を送ろうと心がけていた人たちが多かったように思います。

 いくら長生きしても、出会うべきものに出会って人生を終わらなければ、人間として生きたことにはならないのです。つまり、寿命は長さで計るべきものではなく、その人の人生における豊かさ深さでいうべきだということです。自分を深く見つめて、充実した豊かな人生を生きるためには、今私たちは、何をどうすればよいのでしょうか。

 苦労せず生きてきた人は一人もいないはずです。要はその苦労が、その人をどのように育てたかということです。私はこのままで人生を終わってもよいのか、と自分を振り返ったとき、せっかくの苦労が無駄に終わっているとするならば、何か空しいものを感じることでしょう。

 そのように"空しいなあ"と感じたなら、その空しさをどうしますか。まぎらすのであれば自分の趣味などがあるでしょう。又、最近では健康法が流行し、盛んになってきているのではないでしょうか。いかに健康で長生きし好きなことをしていても、自分の人生のなかにおいて大切なものに出会わなければ、人生を空しく過ごしてしまうことになるのではありませんか。その空しさを自覚する道は、仏の本願に会い、本願に生かされていく生活を始める以外にないのではありませんか。

 親鸞聖人は

本願力にあいぬればむ むなしくすぐるひとぞなき


と和讃にうたわれています。本願力に遇[あ]うとは、聞法して本願を信じ念仏を申す人となることですが、ただ本願を信じられるようになったということではなく、すでに成就している本願の火が私の煩悩を燃やし続ける。充実した人生を生きるとは、そのように私の煩悩に本願の火がつき、負うべき課題をもち、それを問い続ける人生が始まるということではないでしょうか。

2005年6月1日水曜日

「真実を写し出す鏡」 芽室町 大船寺住職 三浦敬篤

 昔から人間は、人生とは、白分とは、杜会のあり方はと問い続けております。

 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、当時、知恵者を自任するソフィストといわれる哲学者たちに、「なんじ自身を知れ」と問答法をもって問うています。自分は何者であるか。これを知らずして、すべてのことは始まらないと言います。また、ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、よく生きることだ」と述べています。よく生きるとは、正義をまもることであると言います。

 そのソクラテスはソフィストたちに市民裁判にかけられ、死刑の判決をうけます。彼は、弟予たちに亡命をすすめられますが、不当な判決ではあるけれども、都市国家の正義を貫くためと、自ら毒杯をあおいで死にます。この中、ギリシアの都市国家は衰退していきます。

 いつの時代も、正義の下で論争が生じ、それが動乱や戦争へと拡人します。現代でも、科学が進み、社会が発展しいるはずですが、さまざまな問題を抱えております。人問の知恵で解決したいものですが、まだまだ未熟であります。

 自分を知ること、よく生きること、どれをとってもその答えを得るのは、なかなか難しいようです。

 自分のものさしで、ものを見る。そのものさしは、都合よく、ときには長くもなり、短くもなる。自分の持つものさしは、当てにならないものです。そして、自分の顔を、自分白身で見えないように、真の自己が見えてきません。自己を写し出す鏡が、必要に思います。

 我が身の真実を写し出す鏡は、何でありましょうか。親鸞聖人のお言葉に

 浄士真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実の我が身にて
  清浄の心さらになし


とあります。み仏の光・教えを通して見えてくる世界でありましょう。偽りのない我が身が見えてくる、虚仮不実と見えるのです。

 この身が生きている。不思議と生きている。かってに心臓が動いている。いつまで続くかは分からない。もしかすると生きているのではなく、生かされているのではと、気づかせてくださいます。そして、私のまわりには、支えてくださっているたくさんの「いのち」があります。そのたくさんの「いのち」に支えられて、私は今ここに生きていると気づかせていただいております。