2003年8月16日土曜日

「「お父さんはどこへ行ったのでしょう?」」 清水町 寿光寺 増山孝伸

 お電話ありがとうございます。

 八月も後半に入りました。

 以前、あるお父さんが、親戚のお葬式にお参りするために、道央のある町まで出かけました。葬儀会場までは何とかたどり着いたそうです。しかし長時間の旅で疲れがたまりすぎたせいなのか、もともと持病を持っておられたのかは分かりません。葬儀会場の受付にたどり着く前に心臓発作で倒れてしまい、救急治療の甲斐なくお亡くなりになられました。

 突然の訃報の知らせを受けたご家族やご親戚の方々が自宅に駆けつけてみると、元気で出かけて行ったお父さんの変わり果てた姿に言葉をなくしてしまったそうです。これが夢なら醒めてほしい、今でもひょっこりと家に帰ってくるように思えて仕方ないけれど、突然起きた、予期できぬ現実。

 ご遺族の方より「親戚の葬儀に行って突然倒れて亡くなりました。今、自宅に帰りましたので枕経をお願いします。」とお寺に連絡が入り、私も大変驚かされました。半月ほど前にはご夫妻そろって元気な顔でお寺参りに来てくれていたからです。面倒見の良い、義理堅い方でした。

 お通夜の前に私が会場の点検をしていると、お子さんの一人から「お父さんはどこへ行ったのでしょう?」と聞かれました。「阿弥陀さまのおられるお浄土に行かれたのですよ」と返答すると、続いて「私のお父さんを連れていってしまったのは阿弥陀さまなのですね」と、阿弥陀さまがお父さんを故人にしたかのように聞かれてしまい、言葉に詰まりかけました。私は「お父さんが帰らぬ人となったのは、阿弥陀さまのせいではなく、迷いの世界ではないお浄土に生まれられ、いつも私たちを見守っているんですよ。そのお浄土におられるお父さんは遠いところにいるのではなく、お念仏を称えればいつでもあなたのそばに来てくれるんですよ」と返答したと思います。すると「いつでもお父さんに会えるんですね」と嬉しそうにうなずいていました。

 今月は八月、お盆の月です。

 今、私たちがここにいるのは、お浄土に還[かえ]っていかれた方々がおられるお陰です。亡き人の姿を見ることはできません。しかし、今、私たちの心の中でもしっかり生きているのではないでしょうか。人として生まれること・生きること・生き続けることも素晴らしいことですね。そう、生きていることそのものが素晴らしいことであり、出会いの喜びもあれば語らいの楽しみもあります。反面、苦しいこと辛いこともあります。生きていることに加えて、お念仏の日暮らしを恵まれていることの幸せ。先ほどのお子さんもお父さんの一周忌の法事の時、「今日はお父さんに会えるんですね」と、嬉しそうに言っておられました。

 ご開山聖人[ごかいさんしょうにん。親鸞聖人のこと]の「遠く宿縁を慶[よろこ]べ」というお言葉の、亡くなられたお父さんのご縁として、人生の出会いを超えた、念仏成仏のご法縁にあえた慶びを、皆様とともに味わうばかりです。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

2003年8月1日金曜日

「みえぬもの」 忠類村(幕別町) 東光寺 豊田信之

 大正の頃、金子みすゞという童謡詩人がおられました。

 金子みすゞは、昭和5年、26才の若さで亡くなっていますが、有名な詩人、西条八十[さいじょうやそ]先生から、「若き童謡詩人の巨星」とまで称讃されています。

 その詩の一つ、『私と小鳥と鈴』という詩は、

 わたしが両手をひろげても、
 お空はちっともとべないが、
 とべる小鳥はわたしのように、
 地面[じべた]をはやくは走れない。

 わたしがからだをゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴るすずはわたしのように
 たくさんのうたは知らないよ。

 すずと、小鳥と、それからわたし、
 みんなちがって、みんないい。


とうたっています。いまひとつ、『星』という詩には、

 青いお空のそこふかく
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる
 昼のお星は目に見えぬ
 見えぬけれどもあるんだよ
 見えぬものでもあるんだよ


とあります。

 こうした詩に、作者の、ものに対する思いの深さ、心のやさしさを感じます。

 金子みすゞの童謡は、小さいもの、力の弱いもの、名もないもの、あたりまえと思われるものの中に、尊いものをとらえて詠んでいます。「みんな違ってみんないい」のことばに優しい思いが伝わってきますし、「昼のお星は目に見えぬ/見えぬけれどもあるんだよ/見えぬものでもあるんだよ」と詠んでいることばにも、尊い心のひびきがあります。

 私たちは目にみえぬものはないと思いがちです。しかし、私たちの目は、真っ暗闇の中では何も見えません。光をいただいてはじめて見えるのです。目が見えるのも光のおかげです。

 仏さま、仏さまのお慈悲というものも、目には見えないものです。しかし、目にみえないものはないのではなく、見えぬものでもあるのです。「おかげさまで」とよろこんで、「ありがとうございます」と仏さまのお慈悲の光のうちにある身をみつめつつ、限りある命を精一杯、日々あゆませていただきたいものです。