2005年6月1日水曜日

「真実を写し出す鏡」 芽室町 大船寺住職 三浦敬篤

 昔から人間は、人生とは、白分とは、杜会のあり方はと問い続けております。

 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、当時、知恵者を自任するソフィストといわれる哲学者たちに、「なんじ自身を知れ」と問答法をもって問うています。自分は何者であるか。これを知らずして、すべてのことは始まらないと言います。また、ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、よく生きることだ」と述べています。よく生きるとは、正義をまもることであると言います。

 そのソクラテスはソフィストたちに市民裁判にかけられ、死刑の判決をうけます。彼は、弟予たちに亡命をすすめられますが、不当な判決ではあるけれども、都市国家の正義を貫くためと、自ら毒杯をあおいで死にます。この中、ギリシアの都市国家は衰退していきます。

 いつの時代も、正義の下で論争が生じ、それが動乱や戦争へと拡人します。現代でも、科学が進み、社会が発展しいるはずですが、さまざまな問題を抱えております。人問の知恵で解決したいものですが、まだまだ未熟であります。

 自分を知ること、よく生きること、どれをとってもその答えを得るのは、なかなか難しいようです。

 自分のものさしで、ものを見る。そのものさしは、都合よく、ときには長くもなり、短くもなる。自分の持つものさしは、当てにならないものです。そして、自分の顔を、自分白身で見えないように、真の自己が見えてきません。自己を写し出す鏡が、必要に思います。

 我が身の真実を写し出す鏡は、何でありましょうか。親鸞聖人のお言葉に

 浄士真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実の我が身にて
  清浄の心さらになし


とあります。み仏の光・教えを通して見えてくる世界でありましょう。偽りのない我が身が見えてくる、虚仮不実と見えるのです。

 この身が生きている。不思議と生きている。かってに心臓が動いている。いつまで続くかは分からない。もしかすると生きているのではなく、生かされているのではと、気づかせてくださいます。そして、私のまわりには、支えてくださっているたくさんの「いのち」があります。そのたくさんの「いのち」に支えられて、私は今ここに生きていると気づかせていただいております。

0 件のコメント: