古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、当時、知恵者を自任するソフィストといわれる哲学者たちに、「なんじ自身を知れ」と問答法をもって問うています。自分は何者であるか。これを知らずして、すべてのことは始まらないと言います。また、ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、よく生きることだ」と述べています。よく生きるとは、正義をまもることであると言います。
そのソクラテスはソフィストたちに市民裁判にかけられ、死刑の判決をうけます。彼は、弟予たちに亡命をすすめられますが、不当な判決ではあるけれども、都市国家の正義を貫くためと、自ら毒杯をあおいで死にます。この中、ギリシアの都市国家は衰退していきます。
いつの時代も、正義の下で論争が生じ、それが動乱や戦争へと拡人します。現代でも、科学が進み、社会が発展しいるはずですが、さまざまな問題を抱えております。人問の知恵で解決したいものですが、まだまだ未熟であります。
自分を知ること、よく生きること、どれをとってもその答えを得るのは、なかなか難しいようです。
自分のものさしで、ものを見る。そのものさしは、都合よく、ときには長くもなり、短くもなる。自分の持つものさしは、当てにならないものです。そして、自分の顔を、自分白身で見えないように、真の自己が見えてきません。自己を写し出す鏡が、必要に思います。
我が身の真実を写し出す鏡は、何でありましょうか。親鸞聖人のお言葉に
浄士真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心さらになし
とあります。み仏の光・教えを通して見えてくる世界でありましょう。偽りのない我が身が見えてくる、虚仮不実と見えるのです。
この身が生きている。不思議と生きている。かってに心臓が動いている。いつまで続くかは分からない。もしかすると生きているのではなく、生かされているのではと、気づかせてくださいます。そして、私のまわりには、支えてくださっているたくさんの「いのち」があります。そのたくさんの「いのち」に支えられて、私は今ここに生きていると気づかせていただいております。
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