2006年8月16日水曜日

「お盆と、浄土真宗のおみのりと。」 音更町 妙法寺 石田智秀

 なまんだぶつ、なまんだぶつ。

 今年のお盆も、無事に、終わりました。お盆は、どのようにお過ごしでしたか。ご家族や親しい方と、ご一緒に過ごすことは出来ましたでしょうか。お寺やお墓に、お盆参りに行くことはできましたでしょうか。

 今日は、お盆にちなみながら、わたしたちのいただいている、浄土真宗という真実の「み教え」を、味わってみたいと思います。

 一般にはこのように言われているのだそうです。つまり、お盆になると、すでに亡くなられているご先祖さまや、親しかった方、ご家族の方たちが、あちらの世界から、こちらの世界に帰って来られる、と。

 そして、お盆が終わると、その方々はまた、あちらの世界に戻って行かれる、と。

 こちらの世界と、あちらの世界。

 こちらの世界はココ、この世だと思います。では、あちらの世界って、どこなのでしょう。

 あちらの世界って、きっと、お浄土だと思うんです。

 でも、わたしたちのご先祖さまや、親しかった方、一緒に暮らしていた方々は、お盆の間だけ、お浄土から、こちらにいらっしゃるのでしょうか。

 いいえ、そんなことはありません。お盆の間はもちろんこちらにいらっしゃいますけれど、お盆じゃなくても、いつでも、こちらにいらっしゃるんです。

 ヘンなことを言っているように聞こえるかもしれません。でも、本当なんです。先にお浄土にいらっしゃった方たちは、お盆の間だけこちらに帰ってくるのではないのです。

 お盆の間だけではなく、私たちがお念仏を称[とな]えさせてもらうとき、いつでも、わたしたちとともに、わたしたちと一緒にいてくれるんです。

 どうしてそんなことが言えるのか。

 どうしてそんなことになるのか。

 その理由は、わたしにはわかりません。

 でも、理由はわからなくても、阿弥陀さまはそのように誓われています。そして阿弥陀さまはその誓いを、そのあっま現実に反映させてくださっているのです。

 阿弥陀さまは、わたしたちが阿弥陀さまの真実の「み教え」を聞かせていただいて、聞いたままを聞いたとおりに、「ああ、そういうものなのだなあ‥‥」といただけば、それがわたしたちの救われていくすがたえである、と、示してくださいました。

 ご先祖さまや、親しかった方、そして、一緒に暮らしていた方たちは、阿弥陀さまによって、真実の救いと出遇うことができました。

 いまわたしが称えさせていただくお念仏には、その方たちがとけ込んでいます。

 お盆だけでなくても、いつでも、どこでも、お念仏を称えると、その中に、ご先祖さまや、親しかった方、一緒に暮らしていた方と出遇うことができる、そのような世界が広がっているんです。

 わたしたちは、わたしたちが救われるために、阿弥陀さまの教えを聞くのではありません。わたしたちが阿弥陀さまの教えを聞かせていただくのは、わたしたちが救われるために必要なことではないのです。

 わたしたちは、救いがわたしたちのために、もう間に合っている、そのことを聞かせていただくのです。

 わたしが聞くことが、わたしの救いの条件なのではありません。

 わたしの救いは、わたしが聞かせていたくより前に、すでに届いているということを、聞かせていただくばかりなのです。

 先にお浄土に行かれた方々は、お盆の間だけ、お浄土から帰って来てくださるのでは、実は、なかったのですね。

 わたしたちが阿弥陀さまの教えを聞かせていただき、お念仏を申させていただく。

 そのとき、わたしたちと常にともにいてくださるのです。

 今日は、お盆にちなんで、わたしたちが救われていく、真実の「み教え」である、浄土真宗を、味合わせていただきました。

 なまんだぶつ、なまんだぶつ。

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