しかしながら、このような日々の生活の中で、私たちは、常に自分が正しいという立場で、他の人を憎んだり、恨んだり、傷つけたりして生きているという事実を忘れてはいけないと思うのです。
ご存知のように、「鬼は外、福は内」と言いながら節分で豆まきをしますが、その「鬼は外」は自分の心のありようを抜きにして「鬼」を外部におしやっている考え方です。ところが実は「鬼」はまさしくいつも私のこころのどこかにいて、いつ顔を出し、いつ化けて出て、困った行動に駆り立てるかもしれない私自身の迷える心そのものなのです。
「自分を是とし、他を非とせめる」とは、単に自己中心的な考えに陥り、他をかえりみないというだけではありません。自分を是とする根拠も、他人や周りの出来事に影響されやすい不確かなものであると言えるのではないでしょうか。
自分は自分、他人は他人というふうに絶えず分裂し対立し、また影響し合って存在しているのが人間の世界です。また時には自分の都合のいいように他人を利用したりするのも言うまでもありません。自分と他人の世界だから、好き嫌いという愛憎[あいぞう]や、善悪の分別が出てきます。そのような分別から、どうしても苦しみが生まれてきます。
それでは、どうしたら自他の分別という束縛の苦しみの世界から逃れることができるのでしょうか。
『歎異抄』[たんにしょう]に
弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とす、としるべし。そのゆへは、罪悪深重[ざいあくじんじゅう]、煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の衆生[しゅじょう]をたすけんがための願にてまします
と示されています。
「真実の世界、自分の分別を超えた世界へ、あなたを救い出さずにはおられない。老いも若きも、善人も悪人も、すべての人を信心ひとつで真実の世界に救い出したい。」という阿弥陀如来の願いが、常に私たちにそそがれ、「南無阿弥陀仏」の喚び声[よびごえ]となっているのです。その喚び声が「鬼」のこころでいっぱいの私の耳に響き、私の身に届くとき、自他の分別を超えた世界、阿弥陀如来の真実の世界、阿弥陀如来の願いに目覚めさせられるのであります。
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