2002年5月16日木曜日

「愚かさを知る人こそ賢者なり」 新得町 新泉寺 高久教仁

 私たち人間ほど複雑で、難しいものはないと、何かことがあるたびに思います。大きなことを言っているかと思えば、小さなことにこだわってくよくよしてみたり、立派なことをしているように思ったら、場合によっては無茶苦茶なことをする時もあります。まして人の心の動きとなると、とても理解できるものではありません。

 学生時代、先生がよく言っていたことばの中に「人を知ることは大変なことであるが、自分を知ることの方がもっと難しい」ということばがございます。私たちは自分のことは自分がいちばんわかっていると思いがちですが、本当は自分のことがいちばんわかっていないのです。ギリシャの賢人は「汝[なんじ]、自らを知れ」と言われています。お釈迦さまも「汝まさに知るべし」と説かれています。

 お釈迦さまのお弟子に、チューラパンタカという人がおられました。この方は弟子の中でも、最も物覚えが悪いことで有名でした。チューラパンタカはそんな自分を悲しみ、ある時、お釈迦さまのもとを去ろうとしました。そのことを知ったお釈迦さまが理由[わけ]を聞くと、チューラパンタカは「私のような愚か者は、他のお弟子に迷惑をかけるばかりです。私にはとても悟りを開くことは出来そうにもありませんのでここを出ようと思います」と答えました。それを聞いたお釈迦さまは「お前は本当に自分のことを愚かものと思っているのか」と問われました。チューラパンタカは「思うも思わないも、私ほど愚かなものはこの世にはございません」と答えました。チューラパンタカのことばを静かに聞いておられたお釈迦さまは、大勢の弟子を集められて「もし愚かなものが自らを愚かなものと思うのなら、それはすなわち賢者であり、愚かなものが自らを賢いと思えば、それは愚かな者であるのだ」と話されました。チューラパンタカはその後、お釈迦さまの教えを守り、誰よりも早く悟りを開いたということです。

 自分自身を知らない人は、どこまでも自分を「是」とし、他の人を「非」とする一生を送ります。自分自身を知ることこそ、本当の幸せな道であり、他の人を幸せにする道であります。自分自身を知ることが出来るのは、仏さまの大きなご本願のおはたらきのお陰であります。

南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏。

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