いつでも どんなときでも 「私が私であって良かったと言える あなたになれ」と 喚びかけて下さる方があった。
その喚び声を聞くことが人間としていちばん大切な願いではないでしょうか。
こう言葉を遺して逝った中島みどりさん。行年40歳でした。
悪性リンパ腫と告知され、それを現実として受容し、残された僅かないのちを惜しみつつ、激痛の合間に「旅立つ私のメッセージ」と題して子どもたちへ手記を残されました。
母親を必要とする時期に母親を失う子どもたちに、「ごめんね、何もしてあげられないお母さんを許してね」と謝りながら、二人の子どもたちが、強く明るく生き抜いてくれるようにという「いのちの叫び」が、いまこころに響いてくるようです。
どんな思いで病気と闘ってきたのだろうか?
どんなにか 生きたかったと思っていただろうか?
でも、縁が尽きれば、いのちを終わっていかなければなりません。
人は必ず死を迎えることは誰しもが分かっています。分かっていない人はいないでしょう。
では、人は何故死ぬのかを知っているでしょうか?
病気になったから? 歳をとったから? いろいろと理由が出てくるかもしれませんね。
答えは、生まれてきたからです。
彼女が亡くなった理由も、生まれてきたからに他なりません。
そして、生まれてこなければ、苦しむこともなければ死ぬこともありません。
でも、それが生きているということではないでしょうか?
生きるとは、自分の思うようにはならないものです。
しかし人は、思うようにならない人生を、何とか思うように生きたいと願うものです。
でも結局は、願うようにはなかなか生きられません。
そこに私たちの苦しみが生まれてくる大きな要因があるのです。
今、宗教というと、自分の願いや都合を叶えてもらうものと思っている方がどれだけいるでしょうか。
願いを叶えてもらえるならば…。
病気が治るならば…。
確かに、そうなればこれほど嬉しいことはありませんね。
でも、先ほど言ったように、思うようにはなかなかなりません。
思うようにならない苦しい時でも、力強く生きる力を与えてもらえるのが宗教なのです。
この方は、信仰とは救われることであり、支えであり、目覚めであり、今日一日生かされていたことへの感謝であったと言いました。
そのことにより、毎日の辛い治療に耐え、病と闘いながらも人生を恨むことなく、公開せず、ましてや不幸を他人のせいにすることなく、最後まで明るく笑顔と感謝の中で人生を生き抜いたようです。
いつ私たちが、病になり、いのちが終わるか分かりません。
まさに今、私たちが思いもよらない人生のまっただ中にいます。
どのような生き方になっても
いつでも、どんな時でも 「私が私であって良かったと言える」 生き方を歩んでいますか?
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