浄土真宗ではこころのよろこびに逢えたのを"信心のよろこび"とか"お念仏のよろこび"とか言い表します。お念仏をよろこぶというのは智慧のまなこを開かせていただくことです。目をさまさせていただくことです。
目がさめてみますと本当のものが本当と受け取れます。その第一が"私自身を知る"ということです。
ところが私たちは私自身が一番わからないのです。醜いものを美しい・愚かなものを尊いと思ってしまいます。しかもこれで良いと自分で納得するのです。
お釈迦さまが故郷に帰って、農民の水を巡るけんかを仲裁された時の話です。
インドのカピラ城とコーリ城の中間にローヒニ河が流れていました。大干ばつが続き水が無くなったため、ローヒニ河の水を奪い合って兵器を持ち出し、戦いが始まろうとしていました。
お釈迦さまは両者の代表を集めていわれました。
(お釈迦さま) | 「そなたたちは何をしようと思ってここに集まっているのか」 |
(代表者たち) | 「戦うためです」 |
(お釈迦さま) | 「何のために戦うのか」 |
(代表者たち) | 「水がほしいからです」 |
(お釈迦さま) | 「何のために水がほしいのか」 |
(代表者たち) | 「米を作るためです」 |
(お釈迦さま) | 「何のために米を作るのか」 |
(代表者たち) | 「いのちをまもるためです」 |
お釈迦さまはいのちをまもるためにいのちを共に奪い合うことの愚かさ・矛盾をさとされました。
私たち人間は本当に大切なものを見失っているのではないでしょうか。生活に追われながら損だ得だといいながらも、必ず死んでいかなければならない身であります。
仏様はそんな私たち人間を自分・他人、美しい・醜い、好き・嫌い、善悪を超えて智慧と慈悲の中に包み込んで、まことの人生・本当の人間の道を歩ませて下さるのです。
それが南無阿弥陀仏のあたたかいおはたらきでありましょう。
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