2003年9月1日月曜日

「智慧と知識」 新得町 立教寺 千葉照映

 釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
  願作仏心はえしめたる
  信心の智慧にいりてこそ
  仏恩報ずる身とはなれ

 智慧の念仏うることは
  法蔵願力のなせるなり
  信心の智慧なかりせば
  いかでか涅槃をさとらまし
(『正像末和讃』34・35)


 私たちの人生は価値の追究であると行って良いのではないでしょうか。

 権力というものに価値を認める人、金銭に価値を認める人、あるいは健康に価値を認める人、また、物質的なものに価値を見出していく人など様々でありましょう。

 私の部屋に置いてあるもののほとんどは、私にとって何らかの形で価値のある物ばかりであります。もし価値観をまったく認めないのであれば、恐らく捨ててしまうでしょう。私たちはその価値を認めたものを追究するために毎日毎日働き、そして一つ一つ手に入れていくのであります。

 さて、そのものに価値を認めた存在、あるいはまったく認めない存在というものがあるかのように思えますが、実際には存在そのものに価値があるわけではないのであります。

 その存在しているものを価値づけていくことの出来る力を「知識」と言うのであります。

 ところが、その価値というものを見出すことの出来るものばかりが存在しているわけでありません。

 たとえ価値を見出すことのできないものの中にも深い意味があるということを知る力を「智慧」というのであります。

 たとえば、一輪の枯れてしまった花があるとしましょう。

 枯れ果ててしまった花には価値はないかも知れませんが、その一輪の花が咲くためには去年の種がなければ、その前の年の種が、そして、光がなければ、水がなければ、さまざまな縁がなければ、咲くことはなかったのであります。

 無限に永い生命の歴史がなければ、その花の存在そのものが無かったことを知るとき、そこには深い意味があるということを知らされるのであります。

 たとえ価値なきものの中にも深い意味を感じ取る力を「智慧」と言うのであり、それを信心と言うのであります。

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