2003年7月1日火曜日

「この身体[からだ]で聞く」 新得町 新泉寺 高久教仁

 お寺によくお参りに来られるお婆さんの中に、いつもトイレの前で手を合わす方がおられます。

 お婆さんは毎朝、目が覚めると、「あぁ、目が見えてくださる有り難いなあ。あぁ、手が動いてくださるありがたいなあ。あぁ、足が動いてくださるありがたいなあ」と思うそうです。また、庭で草を取る時には「せっかくここまで大きくなったのにすまんなあ、すまんなあ」と草一本一本にあやまりながらの作業だそうです。

 このお婆さんのお姿は、一体どこからくるものなのでしょうか。それは昔、子だくさんで食べることさえままならず、学校へも満足に行かせてもらえなかった時代に、必死でお婆さんら子どもたちを育ててくれたお母さんの後ろ姿でありました。お婆さんによると、「母は字も書けず無学であったが、いつでもどこでも誰にでも感謝、感謝の人出、とても優しい方であった。そんな母の心をいつでも“感じて”生きてまいりました」と話をしてくださったことがありました。

 今、このお婆さんと一緒に暮らしてるお孫さんがこの春、大学を卒業した時に、母親に「あなたが近所のみなさんから可愛がられていい子に育ったのは、みんなお婆ちゃんのお陰だね」とあらためて言われたそうです。大学出のお母さんは「学校にも行ってないおばあちゃんがみんなから認められるのに、自分はなぜ認められないのか」と、お婆ちゃんの生き方を深く考えられたそうです。

 私たちは、たくさんの知識を持っています。また、日々発達する科学がすべてを解決してくれると考える人も少なくはないでしょう。しかし、大切なものを見失ってはいないでしょうか。

 お寺に来られる人の中に、「お説教を聞いても少しも喜びが出てこない。一所懸命に聞いているけれども、ひとつも有り難くならない」と申される方がいらっしゃいます。それはただ仏法をことばで理解しようとして頭だけで聞いているからではないでしょうか。

 お釈迦さまが「我が裳裾[もすそ]を取りて我れに従うとも、我れを見るにあらず、法を聞くものこそ我れを見るものである」と言われています。お釈迦さまの裾[裾]を持っていっしょに歩いていても、その姿を目の前に見ながらその声を聞いていても、真実のお釈迦さまに出会っているのではないのです。

 “法を聞く”ということは“感じる”ことであり、こころからうなずくことであります。妙好人[みょうこうにん]と称された念仏詩人の浅原才市[さいち]同行[どうぎょう]は、「こころに当たるナムアミダブツ」と言われています。“こころに当たる”とは、仏さまのいのちが私の全身に響いてくださることです。教えが全身を通して入り込み、その人に働きつづけてくださることであります。仏法とは私のこの身体[からだ]を耳にして聞くことであります。

 わしが阿弥陀になるじゃない
 阿弥陀の方からわしになる
 なむあみだぶつ
さいち

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