私たちは縁あって尊い命をいただき、さまざまな思いの中、自由で満たされた幸せな生活を営むという目的のもと歩みを進めています。
幸せとは、どのようなものでしょうか。幸せだと感じることは、人によって様々な違いがあるように思われます。そして、突き詰めて考えますと、人のさまざまな行為というものは、実は幸せを求める中、その方向性を持っての手段を行っているに他なりません。幸せとは、その方に内在する心が、それぞれの思いの中で感じる世界なのです。その幸せを求めて生活を営む時、私たち一人一人が忘れてならないのは「共々に」ということであります。
菩薩さまの行の基本理念に、「自利利他円満」[じり・りた・えんまん]ということが説かれています。これは。私たち社会に生きる人々すべてが、大切にしなければならない基本的な生活指針でもあると味わうものです。すなわち、自らが行う行為が他をも利するものであること、幸せに導くものであって、他を害したり、悲しみを与えるものであってはならないことを、そのことは教えてくださっています。
私たちの心には、自己中心的な考えが内在します。そして、その心こそが、自らが求めている「共々に幸せでありたい」との願いから遠ざけている最大の原因と、仏さまは教えてくださっているのです。
それぞれが持つ自己中心的な姿が結果的に幸せを阻害[そがい]し、ひいては社会の様々な不幸を招いていることを、一人一人が自覚しなければなりません。仏法を自らの鑑[かがみ]とし、自らを常に見つめた生活を大切にしたいものです。その生き方が、「心の自由」につながる大切な道となるのです。
今、私たち日本人は、教育・科学・文化等、様々な面で恵まれた生活に身をおいているのでしょう。しかしながら、現実の私たちの歩みはどうでしょうか。日や数字によっての吉凶、あるいは、占い・祈祷[きとう]等に頼り、たたり・さわりを気にしながらの生活を送っている姿に直面します。現実は、決して真に自由な心の歩みとは言えない私にきづかされます。社会的には、言論・信教・結社・職業・婚姻等という自由が法のもとに保障されてはいますが、現実には内外にあっていろいろな問題を抱えております。また、私たちの心には、絶えず貪り[むさぼり]・怒り・愚かさから離れられない現実の自己があります。
このような様々な状況を抱える身にあって、如来さまの「み教え」[みおしえ]に出遇い、慈光のもと、お念仏を心に生きていくということは、どのような姿に生きることを示しているのでしょうか。ご開山聖人[ごかいさんしょうにん・親鸞聖人のこと]は、私たちに「念仏者は、無碍[むげ]の一道なり」とお示しくださいました。念仏者は諸々の心の束縛から解放され、真の自由の身にならせていただくという「念仏者の歩みの姿」をお伝えくださいました。
『蓮如上人御一代記聞書』[れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき]に述べられる「仏法を心の主[あるじ]とし」を自らの生活の中で大切にいただきたいと思う次第です。
どうか、今後とも仏法を聴聞[ちょうもん])するということを、日々、生活の中で怠りなく、と願うものです。
南無阿弥陀仏。
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