今年もいよいよ師走に入り1年がもう終わりますが、私たちが人生を生き抜いていくとき、さまざまな終わりがあります。学生生活の終わり、サラリーマンとしての終わり、そして人生の終わり。
どれをみても大切な人生の区切りです。それらの終わりを迎える時に、何とか充実した終わりを迎えたいと誰もが思い力をしますが、終わりが近づけば近づくほど、「ああもすればよかった、こうもすればよかった」という思いが強くなるものです。けっして怠けたわけではないのにそういう思いが強くなります。
源信和尚[げんしんかしょう 942-1017]は『往生要集』に、自分の人生が終わろうとしているにもかかわらず、肝心な自分の「いのち」の問題には全く無関心で、どうなっても大したことはない事柄の方が気になり、「あれもしたい、これもしたい」という人間の有りさまを示しておられます。
そして、せっかく人間として生まれさせていただいたのだから、人間の身勝手な思いに振り回されることなく、ひとときでも早く仏法を弔問して、もっとも大切なことは何かをはっきりさせるべきだ、と教えてくださっています。
では、いったい人間として最も大切で、このことだけは獲得しておかなければ、他の全てのことが意味を失うような事柄とは何なのでしょう?
私たちの日常生活は、日々煩悩に支配され、苦悩なしに生きていけません。その人間の根本苦から解放し、安らかな浄土へと導くために説き開かれたのが「お念仏」の「み教え」[みおしえ]です。そのみ教えは、凡夫である私たちが、阿弥陀如来の智慧の光に照らされ、自己と如来の真実を教えてくださるものです。それは、世俗の営みと煩悩の支配の中でしか生きることのなかった私たちが、如来さまのお言葉に耳を傾け、浄土をめざして生きる人間にお育てくださるものです。み教えに遇うことこそ「人間としてのいのちを生きる意味」なのです。
損得に縛られ、本当に大切なことは何かが分からない私たちを、如来さまは私たちに先立って心配し、途方もなく長い思惟[しゆい]の後、私たちを救うために与えてくださったお言葉こそ「南無阿弥陀仏」の名号なのです。
私たちは人間として「いのち」を恵まれました。そしてこの「いのち」は浄土へと帰りゆくべき尊い意味をもっていると知らされました。人間の身には終わりがありますが、この身の終わりが如来さまへの仲間入りと聞かされ、生と死を超えることができそうです。これもすべてお念仏のはたらきです。このはたらきをよろこべるかどうか・・・。これこそ人間としての一大事であります。
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