浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、この何一つ思い通りにならない私の生きざまを明らかにするために、阿弥陀さまから賜[たまわ]お念仏を、私自身が問い訪ね、伝えていってくださいとお示しくださいました。
私たちは限りある人生を送っています。誰もが生まれたら、いつ死ぬかわからない人生を生きていることは誰でもが知っていますが、それは誰から教わったことでしょうか。
ある児童心理学の先生の話ですが、生まれて間もない赤ちゃんの笑顔が見たいためによく「いない・いない・バー」をしますが、赤ちゃんにとってはいつも目の前にいる人、お父さんか、お母さんか分からないけれど、心休まる人が目の前にいたのが《いない・いない》と目の前から消えてしまうことはとても怖いことで、《いない・いない》が長ければ長いほど恐怖が心に焼きつくそうです。そしてその後に《バァ》とやると満面の笑顔を見せますが、これは会えた喜び・生きる喜びとして学習する、と教えてくださいました。
「限られた命」を生きている私たちですが、若さと健康に自分自身の命が見えずに、日々を送っていて、自分の命の有りさまに気づけない私に、生死[しょうじ]の直中[ただなか]に生きていることに気づいてくれよ、という叫びが、「いない・いない・バー」という遊びの中に込められているのではないでしょうか。
童謡作家 金子みすゞさんの『わたしと小鳥とすずと』の中に、『日の光』という童謡があります。
日の光
おてんと様のお使いが
そろって空をたちました。
みちで出会ったみなみ風、
(何しに、どこへ。)とききました。
ひとりは答えていいました。
(この「明るさ」を地にまくの、みんながお仕事できるよう。)
ひとりはさもさもうれしそう。
(わたしはお花をさかせるの、世界をたのしくするために。)
ひとりはやさしく、おとなしく、
(わたしはきよいたましいの、のぼるそり橋かけるのよ。)
のこったひとりはさみしそう。
(わたしは「かげ」をつくるため、やっぱり一しょにまいります。)
3月は、たくさんの思い出とともに、保育所・幼稚園・小学校・中学校を卒業していく、子どもたちの新たな旅立ちの季節です。
保育所や学校を卒業していく子どもたちは、それぞれどこに行くのでしょうか。世界中に花を咲かせ、「明るさ」をちりばめてくれる優しいたましいの架け橋になってくれることを願います。
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