ようこそお電話くださいました。十勝組テレホン法話でございます。
よく、お経を聞かせていただきますとありがたいですね、心が休まりますね、ということを耳にいたします。
さて、ありがたいと言っている方に理屈を言うようで申し訳ないのですが、いったいどういうところがありがたいのでしょうか。
お経の中身がわかってありがたいのか、それとも世間の相場ではお経はありがたいものときめてつけているのか。
恐らく後者ではないでしょうか。私たちも含めてほとどんどの方はお経を聞いて内容をすっと理解できる方は少ないのではないでしょうか。
特殊な語学を身につけている方は別として。無理もないことであります。日本語ではありませんから。
お経とは、ご存知のとおりインドの国でお釈迦さまがお弟子さんを集めて、自分がさとりを開いた内容、すなわち「ご法話」をされました。2500年昔のことであります。筆記用具、メモ帳があるわけでなく、まして録音器具があるわけでもありません。当時は尊いお言葉は身をもって聞きなさいという習慣がありました。ですからお釈迦さまが生きておられる間は良かったのですが、問題はお亡くなりになった後、出てまいりました。
メモがありませんから「いやそんなふうには聞いていない、私はこう聞いていた」というふうに少しずつ聞き違いがでてきてしまったのです。
こんなことではせっかくのありがたいお釈迦さまのご法話が歪められてしまうと嘆かれ、お弟子さん方が集まり、書き残されたもの、それがお経であります。
そのお経が中国へと渡っていきます。中国ではそれを何年も何十年もかかって中国語へと翻訳されました。やがて日本へも渡ってきたのですが、そこでは翻訳できなかったのであります。それをそのままいただいたのです。
ですから今、私たちがいただいているのは中国語そのままのお経と言ってもいいわけです。日本人が中国語のお経を聞いているわけですから理解しがたいのも当然のことであります。
理解した者だけを救うという教えではありませんが、お釈迦さまが生涯かけて、命をかけて説き続けてくださったみ教えであります。
解らせていただこう、味合わせていただこうとする心の中から読ませていただく、それがお経を読ませていただく真摯な心構えではないでしょうか。
お電話ありがとうございました。担当は立教寺、千葉照映がさせていただきました。
2007年6月16日土曜日
2007年5月21日月曜日
2007年5月9日水曜日
2007年5月1日火曜日
「まさに貪欲こそ、苦の原因」 音更町 浄信寺住職 御幸誓見
ひと昔前のバブル全盛期ほどではありませんが、大型の詐欺事件が報道されています。今でも時々こんな電話がかかってきます。「大変お得な情報がありますが、いかがでしょうか」のような類の話です。
そうした電話には「そんなに儲かるなら、他人に教えないで自分だけのものにしたらどうですか」と答えて断りますが、敵もさるもの、「それはそうですが、私ひとりだけでなく、皆さんにも儲けてもらって幸せになってもらいたいのです」と返ってきます。
人間の欲望というのは、際限がありません。なければないで欲しがりますし、あればあったでそれらをもっと増やしたいと欲が出ます。先の電話の話も、そうした人間の弱さをついた話といえますが、欲しい欲しいという貪[むさぼ]りの心が、自分自身を苦しめているのではないでしょうか。まさに、貪欲[とんよく]こそ、苦の原因です。
お釈迦さまは私たちに、貪欲をはじめ三毒の煩悩を取り除かなければ、さとりを得ることができないと諭されました。ちょうど田畑において、雑草を抜いておかなければ、実りを収穫することができないのと同じです。
しかし、困ったことに、雑草は抜いても抜いても下から生えてくるのと同じく、煩悩も次から次へとわきおきってきます。
そうした煩悩を断ち切ることができない人間の実相を見抜かれ、それでもなお「必ず救うぞ」と呼びかけ続けてくださるのが阿弥陀如来であることを、尊くありがたく仰ぎたいものです。
そうした電話には「そんなに儲かるなら、他人に教えないで自分だけのものにしたらどうですか」と答えて断りますが、敵もさるもの、「それはそうですが、私ひとりだけでなく、皆さんにも儲けてもらって幸せになってもらいたいのです」と返ってきます。
人間の欲望というのは、際限がありません。なければないで欲しがりますし、あればあったでそれらをもっと増やしたいと欲が出ます。先の電話の話も、そうした人間の弱さをついた話といえますが、欲しい欲しいという貪[むさぼ]りの心が、自分自身を苦しめているのではないでしょうか。まさに、貪欲[とんよく]こそ、苦の原因です。
お釈迦さまは私たちに、貪欲をはじめ三毒の煩悩を取り除かなければ、さとりを得ることができないと諭されました。ちょうど田畑において、雑草を抜いておかなければ、実りを収穫することができないのと同じです。
しかし、困ったことに、雑草は抜いても抜いても下から生えてくるのと同じく、煩悩も次から次へとわきおきってきます。
そうした煩悩を断ち切ることができない人間の実相を見抜かれ、それでもなお「必ず救うぞ」と呼びかけ続けてくださるのが阿弥陀如来であることを、尊くありがたく仰ぎたいものです。
2007年4月28日土曜日
2007年4月26日木曜日
2007年4月16日月曜日
「新しい春を迎えるにあたって」 清水町 妙覚寺 脇谷暁融
ようこそ、浄土真宗本願寺派 十勝組[とかちそ]のテレホン法話におかけくださいました。
今回は、わたくし清水町妙覚寺の脇谷が担当です。
今年度も4月になり、一斉に新しい始まりを迎えました。入学や就職、それぞれのお宅でもお身内におられるのかもしれません。私たちの十勝組でも、組長[そちょう]をはじめ役員がそれぞれに変わり、新体制でのスタートを切ろうとしているさなかです。これから十勝に住まいする私たちに関わる大きな行事としました、今年の11月には帯広別院の100周年のお祝いの法要を迎えます。また2011(平成23)年の親鸞聖人750回大遠忌法要までの5年間、この新しい十勝組、帯広別院の顔ぶれでみなさまとともに念仏の歩みを進めたいと考えております。
念仏のみ教えはこのように750年以上もの間、人々の、そして私たちの人生に大きくかかわるものとして、長い歴史を積み重ねてきました。先人の多大なご苦労は想像を絶するものがあり一口に表現することはできません。またそれは、一軒一軒の名もなき多くの人々によって、親から子へとそれぞれがそれぞれに伝えられてきたものでもあり、そのみ教えが、いよいよ私自身の人生において、今届いてきてくださっているのも事実です。その中で、私たち自身は今一度、阿弥陀如来の本当の願いをたしかに受け取って生かされているかを、たずねてみなくてはなりません。
ありがたいことです。もったいないことです。と言葉に表わされてきましたが、何がありがたいのか、何をもったいないと言ってきたのか、本当の願いに聞き訪ねてみたことはあるでしょうか。ありがたいと言っている私自身が、ほかの人のことはどうでもいいこと、それは関係ないこととして、多くの人々のいのちをないがしろにし踏みにじって生きてはいないでしょうか。もったいないことと言いながら、自らの人生を深く顧みることなく、適当なところで開き直って生きてはいないでしょうか。
浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来のみ名[みな]を称[とな]える念仏一つという世界から、自らをどこまでも掘り下げていくことで深く味わい、人のいのちを踏みにじり、自らに開き直ってきた私自身の姿が、あきらかにしらされていくことを信心といただいてきました。
阿弥陀如来は、すべてのいのちはすべて平等にあってくださることを私の上に知らせています。しかし、私たち自身は平等、平等と言いながら、ほかかの人を差別し見下し、嫉妬や怨みを抱いて生きてきたのではないでしょうか。それが長い歴史の中で、教えを味わう中に含まれてしまっているとしたら、大変悲しいことになります。
新しい春をみなが迎えるこの時期、私が味わってきた念仏ははたして、私の人生においてどうであったのか再確認してみる機会とも言えましょう。
今回は、わたくし清水町妙覚寺の脇谷が担当です。
今年度も4月になり、一斉に新しい始まりを迎えました。入学や就職、それぞれのお宅でもお身内におられるのかもしれません。私たちの十勝組でも、組長[そちょう]をはじめ役員がそれぞれに変わり、新体制でのスタートを切ろうとしているさなかです。これから十勝に住まいする私たちに関わる大きな行事としました、今年の11月には帯広別院の100周年のお祝いの法要を迎えます。また2011(平成23)年の親鸞聖人750回大遠忌法要までの5年間、この新しい十勝組、帯広別院の顔ぶれでみなさまとともに念仏の歩みを進めたいと考えております。
念仏のみ教えはこのように750年以上もの間、人々の、そして私たちの人生に大きくかかわるものとして、長い歴史を積み重ねてきました。先人の多大なご苦労は想像を絶するものがあり一口に表現することはできません。またそれは、一軒一軒の名もなき多くの人々によって、親から子へとそれぞれがそれぞれに伝えられてきたものでもあり、そのみ教えが、いよいよ私自身の人生において、今届いてきてくださっているのも事実です。その中で、私たち自身は今一度、阿弥陀如来の本当の願いをたしかに受け取って生かされているかを、たずねてみなくてはなりません。
ありがたいことです。もったいないことです。と言葉に表わされてきましたが、何がありがたいのか、何をもったいないと言ってきたのか、本当の願いに聞き訪ねてみたことはあるでしょうか。ありがたいと言っている私自身が、ほかの人のことはどうでもいいこと、それは関係ないこととして、多くの人々のいのちをないがしろにし踏みにじって生きてはいないでしょうか。もったいないことと言いながら、自らの人生を深く顧みることなく、適当なところで開き直って生きてはいないでしょうか。
浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来のみ名[みな]を称[とな]える念仏一つという世界から、自らをどこまでも掘り下げていくことで深く味わい、人のいのちを踏みにじり、自らに開き直ってきた私自身の姿が、あきらかにしらされていくことを信心といただいてきました。
阿弥陀如来は、すべてのいのちはすべて平等にあってくださることを私の上に知らせています。しかし、私たち自身は平等、平等と言いながら、ほかかの人を差別し見下し、嫉妬や怨みを抱いて生きてきたのではないでしょうか。それが長い歴史の中で、教えを味わう中に含まれてしまっているとしたら、大変悲しいことになります。
新しい春をみなが迎えるこの時期、私が味わってきた念仏ははたして、私の人生においてどうであったのか再確認してみる機会とも言えましょう。
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