2007年4月16日月曜日

「新しい春を迎えるにあたって」 清水町 妙覚寺 脇谷暁融

 ようこそ、浄土真宗本願寺派 十勝組[とかちそ]のテレホン法話におかけくださいました。

 今回は、わたくし清水町妙覚寺の脇谷が担当です。

 今年度も4月になり、一斉に新しい始まりを迎えました。入学や就職、それぞれのお宅でもお身内におられるのかもしれません。私たちの十勝組でも、組長[そちょう]をはじめ役員がそれぞれに変わり、新体制でのスタートを切ろうとしているさなかです。これから十勝に住まいする私たちに関わる大きな行事としました、今年の11月には帯広別院の100周年のお祝いの法要を迎えます。また2011(平成23)年の親鸞聖人750回大遠忌法要までの5年間、この新しい十勝組、帯広別院の顔ぶれでみなさまとともに念仏の歩みを進めたいと考えております。

 念仏のみ教えはこのように750年以上もの間、人々の、そして私たちの人生に大きくかかわるものとして、長い歴史を積み重ねてきました。先人の多大なご苦労は想像を絶するものがあり一口に表現することはできません。またそれは、一軒一軒の名もなき多くの人々によって、親から子へとそれぞれがそれぞれに伝えられてきたものでもあり、そのみ教えが、いよいよ私自身の人生において、今届いてきてくださっているのも事実です。その中で、私たち自身は今一度、阿弥陀如来の本当の願いをたしかに受け取って生かされているかを、たずねてみなくてはなりません。

 ありがたいことです。もったいないことです。と言葉に表わされてきましたが、何がありがたいのか、何をもったいないと言ってきたのか、本当の願いに聞き訪ねてみたことはあるでしょうか。ありがたいと言っている私自身が、ほかの人のことはどうでもいいこと、それは関係ないこととして、多くの人々のいのちをないがしろにし踏みにじって生きてはいないでしょうか。もったいないことと言いながら、自らの人生を深く顧みることなく、適当なところで開き直って生きてはいないでしょうか。

 浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来のみ名[みな]を称[とな]える念仏一つという世界から、自らをどこまでも掘り下げていくことで深く味わい、人のいのちを踏みにじり、自らに開き直ってきた私自身の姿が、あきらかにしらされていくことを信心といただいてきました。

 阿弥陀如来は、すべてのいのちはすべて平等にあってくださることを私の上に知らせています。しかし、私たち自身は平等、平等と言いながら、ほかかの人を差別し見下し、嫉妬や怨みを抱いて生きてきたのではないでしょうか。それが長い歴史の中で、教えを味わう中に含まれてしまっているとしたら、大変悲しいことになります。

 新しい春をみなが迎えるこの時期、私が味わってきた念仏ははたして、私の人生においてどうであったのか再確認してみる機会とも言えましょう。

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