正しい心の統一についてお話をさせていただきます。
なぜ心の統一が必要なのでしょうか。昔から「水は方円の器にしたがう」といいます。円型の入れ物に水を入れますと水も円型です。四角い入れ物に水を移しかえますと、今度も水も四角い型になります。人間の心も同じことで、周囲の状況次第で心は美しくもなりますし、汚れもします。他からの影響をうけやすいのが心です。
あなたが相手に対して、心にほほえみをもって接したら、相手の人もあなたに好意を持ちますし、あなたが、心に怒りを抱いて接したら、相手の人も不快感を抱きます。
どんな小さなことであろうと、他人がしてくれたことにあなたが感謝の気持ちをもったら、相手の人もよろこびを感じます。
このように、自分の心も相手の心も同じように変わってゆくものです。一日にどれほど心が変わってゆくでしょうか。少しもじっとしていません。心に落ち着きがありませんから、不安になったり、どうしたらよいのか迷ったりするのです。そして真の安らぎが少しもありません。
ですから、真の安らぎを得るために正しく心を統一することが必要なのです。いわゆる精神統一です。精神統一をして、静かな心で仏のことをおもったり、無常の道理を考えたりしますと、心が純粋になり、正しい智慧を得ることができるからです。
日常生活でも、心を静め、精神を集中することは大切なことです。そうすることによって物事を的確に判断することができますし、仕事などにも専念することができます。欲望にふりまわされて身をもちくずすことがなくなります。
明鏡止水[めいきょうしすい]といいます。曇りのない鏡のように、澄みきった水面[みなも]のように、心を平静[へいせい]にすることをいいます。
また無念無想[むねんむそう]といいます。野球の選手が集中力を養うために禅の道場で座禅をした話を新聞で見たことがあります。150キロの猛スピードの小さな球が目の前を通るとき、一瞬の間にそれを打ち返さなくてはなりません。まさに真剣勝負です。そのためには集中力が必要です。集中力を養うために座禅で心をきたえたのです。
このように、心を静めて集中した状態を仏教では「三昧」[さんまい]といいます。一心不乱に読書することを読書三昧といいます。俳句や囲碁を楽しむことを道楽三昧といいます。読書によって心を落ち着かすことができますし、俳句や囲碁を楽しむことによって心に安らぎができてきます。
ところが、本当に心の落ち着く方法は仏の教えを聞くことです。
仏の教えを聞くと、自然に自己をふりかえって日暮らしをするようになりますし、他人の迷惑になることは少しでもつつしんで、他人に喜ばれるようなことをするように心がけます。欲望に振り回されて生きてきた私が、むしろ欲望をコントロールして、その欲望をよい方向に転化していくようになります。
正しい心の統一をあなたも試みてください。
2006年5月1日月曜日
2006年4月1日土曜日
「五濁悪世」 幕別町忠類 東光寺 豊田信之
現代の世相は、自己主張と相手に責任をなすりつけようとする姿勢があまりにも目立つような気がします。真と偽、本物と偽物を見分けることができなくて、右往左往している姿が見受けられます。近頃も、偽メール問題とかで世間を騒がせて、報道を賑わせたのは周知の通りです。
世間が悪くなってゆくありさまを「五濁悪世」[ごじょくあくせ]と、『阿弥陀経』というお経には説かれています。時代、世相全般が濁ってくるというのです。それは自己中心的思考が蔓延し、それを正当化したり行動化していることであり、人間の器量を小さくしていきます。
このように自己中心的な人間が集まって生きてゆくのですから、人間のみならず万物のいのちの尊厳を考えることが出来なくなり、さらには人間自体のいのちさえも大切にかんがえられなくなってしまいます。「五濁」とは、我執[がしゅう]によって引き起こされる「いのち」に対する軽視であり、それは万物の生存を脅[おびや]かす脅威といえましょう。人間が自身の浄化作用を完全に失った、傲慢[ごうまん]で愚かな姿であります。まさに現代を思うとき、社会全般に対して、また自分自身に対しても「五濁悪世」のことばがこころに深く突き刺さります。
このような「五濁悪世」たる私が、阿弥陀さまのご本願を信じること一つで現生[げんしょう]に正定聚[しょうじょうじゅ]の位[くらい]に定まるとおすすめくださるのが、南無阿弥陀仏の「み教え」です。阿弥陀さまの浄土に生まれて無上涅槃をさとらしめる、と説かれます。その利益[りやく]を現生[げんしょう]、今の世から語るならば、信心の行者とは阿弥陀さまの本願の智慧をたまわった者であり、正しく成仏に決定[けつじょう]した正定聚の位に定まった者となります。具体的には「五濁悪世」と教えられた「濁悪」[じょくあく]の現実を自覚して、自他ともに如来の智慧によって浄化されつつ浄土に向かっての仏道を生き抜くことでありましょう。
次のような文章に出あいました。味わってみてください。
南無阿弥陀仏。
世間が悪くなってゆくありさまを「五濁悪世」[ごじょくあくせ]と、『阿弥陀経』というお経には説かれています。時代、世相全般が濁ってくるというのです。それは自己中心的思考が蔓延し、それを正当化したり行動化していることであり、人間の器量を小さくしていきます。
このように自己中心的な人間が集まって生きてゆくのですから、人間のみならず万物のいのちの尊厳を考えることが出来なくなり、さらには人間自体のいのちさえも大切にかんがえられなくなってしまいます。「五濁」とは、我執[がしゅう]によって引き起こされる「いのち」に対する軽視であり、それは万物の生存を脅[おびや]かす脅威といえましょう。人間が自身の浄化作用を完全に失った、傲慢[ごうまん]で愚かな姿であります。まさに現代を思うとき、社会全般に対して、また自分自身に対しても「五濁悪世」のことばがこころに深く突き刺さります。
このような「五濁悪世」たる私が、阿弥陀さまのご本願を信じること一つで現生[げんしょう]に正定聚[しょうじょうじゅ]の位[くらい]に定まるとおすすめくださるのが、南無阿弥陀仏の「み教え」です。阿弥陀さまの浄土に生まれて無上涅槃をさとらしめる、と説かれます。その利益[りやく]を現生[げんしょう]、今の世から語るならば、信心の行者とは阿弥陀さまの本願の智慧をたまわった者であり、正しく成仏に決定[けつじょう]した正定聚の位に定まった者となります。具体的には「五濁悪世」と教えられた「濁悪」[じょくあく]の現実を自覚して、自他ともに如来の智慧によって浄化されつつ浄土に向かっての仏道を生き抜くことでありましょう。
次のような文章に出あいました。味わってみてください。
笑顔で感謝し合って毎日を生きる
そこに仏様の願われた世界がある合掌してお陰様でと頭を下げる
そこに仏様がおみえになる
笑顔で感謝し合って毎日を生きる
そこに仏様の世界がある
合掌してお陰様でと頭を下げる
そこに仏様はお見えになる
南無阿弥陀仏。
2006年3月1日水曜日
「おおいに悲しみ おおいに喜び」 帯広市 仏照寺 藤本実
ようこそ、お電話を下さいました。ありがとうございます。
「お寺さんは悩みはないんでしょうね」とよく質問をされることが多いのですが、必ず、「吸った息を吐いている間は、悩みだらけですよ」とお答えをしております。皆さんの中には生きていることは楽しいことばかり、苦しみ、悩み、悲しいことは未だ経験したことがないとおっしゃる方がいるかもしれませんが、生きていくということは、悲しく、辛く、苦しいことが実に多いものです。
お釈迦さまは、そのような人生の実相、本当の有様を「一切皆苦」[いっさいかいく]と示して下さいました。しかし、私たちはその悲しく、辛く、苦しいことが起こった時、出来る限りプラス思考に逆転したり、自分の人生から遠ざけようとする私を見抜かれて、悲しく、辛く、悲しいと思い悩む心の根本の原因は、「私の思いが、何一つ思い通りにならない」ことを苦しみとおっしゃっておられます。
また、私たちは思ったり感じたりしたことを素直に表現することを良くないことと思ってしまい体裁を取り繕[つくろ]うことに翻弄[ほんろう]されて、本音を包み隠しながら生活しているように見えます。
先日、若くしてご主人を亡くされたご婦人から尋ねられました。「いくら悲しんでも、ご主人は帰ってこないんだから、早く忘れてしまいなさい」とか、「未練が残るから、遺品はすべて処分してしまいなさい」と言われるそうです。「忘れない」と言われると、ものすごく辛い、でも、いつまでも泣いてばかりもいられない。どうしたらよいのですか、ということでした。そこで私は、「大切な方を亡くした時、悲しいのは当然です。ご主人のことを思って泣いたらいいんですよ。悲しむことは大事なことです」とお答えをしましたら、「泣いてもいいんですよね」と安心されたお顔を見せて下さいました。
神戸児童連続殺傷事件で、小学校4年生の娘さんを殺されてしまった山下京子さんが書かれた著書『彩花へふたたび あなたがいてくれるから』の中に、
と。
いかがでしょうか。阿弥陀さまの智慧に照らされて、私自身の命のあり方を知らされ、悲しい時には大声で泣き、苦しい時には、精一杯愚痴りながら、もちろん、嬉しいときには心から喜び、ありのままの私の人生を生きることが出来ます。
「お寺さんは悩みはないんでしょうね」とよく質問をされることが多いのですが、必ず、「吸った息を吐いている間は、悩みだらけですよ」とお答えをしております。皆さんの中には生きていることは楽しいことばかり、苦しみ、悩み、悲しいことは未だ経験したことがないとおっしゃる方がいるかもしれませんが、生きていくということは、悲しく、辛く、苦しいことが実に多いものです。
お釈迦さまは、そのような人生の実相、本当の有様を「一切皆苦」[いっさいかいく]と示して下さいました。しかし、私たちはその悲しく、辛く、苦しいことが起こった時、出来る限りプラス思考に逆転したり、自分の人生から遠ざけようとする私を見抜かれて、悲しく、辛く、悲しいと思い悩む心の根本の原因は、「私の思いが、何一つ思い通りにならない」ことを苦しみとおっしゃっておられます。
また、私たちは思ったり感じたりしたことを素直に表現することを良くないことと思ってしまい体裁を取り繕[つくろ]うことに翻弄[ほんろう]されて、本音を包み隠しながら生活しているように見えます。
先日、若くしてご主人を亡くされたご婦人から尋ねられました。「いくら悲しんでも、ご主人は帰ってこないんだから、早く忘れてしまいなさい」とか、「未練が残るから、遺品はすべて処分してしまいなさい」と言われるそうです。「忘れない」と言われると、ものすごく辛い、でも、いつまでも泣いてばかりもいられない。どうしたらよいのですか、ということでした。そこで私は、「大切な方を亡くした時、悲しいのは当然です。ご主人のことを思って泣いたらいいんですよ。悲しむことは大事なことです」とお答えをしましたら、「泣いてもいいんですよね」と安心されたお顔を見せて下さいました。
神戸児童連続殺傷事件で、小学校4年生の娘さんを殺されてしまった山下京子さんが書かれた著書『彩花へふたたび あなたがいてくれるから』の中に、
私が無意識のうちに選択してた方法は、泣きたい時には大声で泣くという方法でした。愚痴や泣き言も、無理に留めないでいっぱい言います。誰かに寄り添いたくなったら、夫や友人にもたれかかります。自分の悲しみの感情に逆らわないことにしたのです。(中略)
深く悲しむことができる人のみが、深い喜びと、深い怒りを知ることができるのだと、ようやく納得しつあるところです
と。
いかがでしょうか。阿弥陀さまの智慧に照らされて、私自身の命のあり方を知らされ、悲しい時には大声で泣き、苦しい時には、精一杯愚痴りながら、もちろん、嬉しいときには心から喜び、ありのままの私の人生を生きることが出来ます。
2006年2月1日水曜日
「「鬼は外!」の「鬼」とは‥‥?」 大樹町 光教寺 岩崎教之
自分を正当化したり、責任を他人に転嫁したりして、ついつい自分を防御してしまうことがあります。毎日の日暮らしの中で誰しもよくあることです。自分が居心地のいい都合のよい場所、立場、空間に安住したいという防御意識があるからだと思います。それは、何よりも自分が一番大事であるという自己中心的な考え方からすれば当然なのかもしれません。実際問題、生計を立てて競争社会を生きていくためには仕方のないことだともいえましょう。
しかしながら、このような日々の生活の中で、私たちは、常に自分が正しいという立場で、他の人を憎んだり、恨んだり、傷つけたりして生きているという事実を忘れてはいけないと思うのです。
ご存知のように、「鬼は外、福は内」と言いながら節分で豆まきをしますが、その「鬼は外」は自分の心のありようを抜きにして「鬼」を外部におしやっている考え方です。ところが実は「鬼」はまさしくいつも私のこころのどこかにいて、いつ顔を出し、いつ化けて出て、困った行動に駆り立てるかもしれない私自身の迷える心そのものなのです。
「自分を是とし、他を非とせめる」とは、単に自己中心的な考えに陥り、他をかえりみないというだけではありません。自分を是とする根拠も、他人や周りの出来事に影響されやすい不確かなものであると言えるのではないでしょうか。
自分は自分、他人は他人というふうに絶えず分裂し対立し、また影響し合って存在しているのが人間の世界です。また時には自分の都合のいいように他人を利用したりするのも言うまでもありません。自分と他人の世界だから、好き嫌いという愛憎[あいぞう]や、善悪の分別が出てきます。そのような分別から、どうしても苦しみが生まれてきます。
それでは、どうしたら自他の分別という束縛の苦しみの世界から逃れることができるのでしょうか。
『歎異抄』[たんにしょう]に
と示されています。
「真実の世界、自分の分別を超えた世界へ、あなたを救い出さずにはおられない。老いも若きも、善人も悪人も、すべての人を信心ひとつで真実の世界に救い出したい。」という阿弥陀如来の願いが、常に私たちにそそがれ、「南無阿弥陀仏」の喚び声[よびごえ]となっているのです。その喚び声が「鬼」のこころでいっぱいの私の耳に響き、私の身に届くとき、自他の分別を超えた世界、阿弥陀如来の真実の世界、阿弥陀如来の願いに目覚めさせられるのであります。
しかしながら、このような日々の生活の中で、私たちは、常に自分が正しいという立場で、他の人を憎んだり、恨んだり、傷つけたりして生きているという事実を忘れてはいけないと思うのです。
ご存知のように、「鬼は外、福は内」と言いながら節分で豆まきをしますが、その「鬼は外」は自分の心のありようを抜きにして「鬼」を外部におしやっている考え方です。ところが実は「鬼」はまさしくいつも私のこころのどこかにいて、いつ顔を出し、いつ化けて出て、困った行動に駆り立てるかもしれない私自身の迷える心そのものなのです。
「自分を是とし、他を非とせめる」とは、単に自己中心的な考えに陥り、他をかえりみないというだけではありません。自分を是とする根拠も、他人や周りの出来事に影響されやすい不確かなものであると言えるのではないでしょうか。
自分は自分、他人は他人というふうに絶えず分裂し対立し、また影響し合って存在しているのが人間の世界です。また時には自分の都合のいいように他人を利用したりするのも言うまでもありません。自分と他人の世界だから、好き嫌いという愛憎[あいぞう]や、善悪の分別が出てきます。そのような分別から、どうしても苦しみが生まれてきます。
それでは、どうしたら自他の分別という束縛の苦しみの世界から逃れることができるのでしょうか。
『歎異抄』[たんにしょう]に
弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とす、としるべし。そのゆへは、罪悪深重[ざいあくじんじゅう]、煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の衆生[しゅじょう]をたすけんがための願にてまします
と示されています。
「真実の世界、自分の分別を超えた世界へ、あなたを救い出さずにはおられない。老いも若きも、善人も悪人も、すべての人を信心ひとつで真実の世界に救い出したい。」という阿弥陀如来の願いが、常に私たちにそそがれ、「南無阿弥陀仏」の喚び声[よびごえ]となっているのです。その喚び声が「鬼」のこころでいっぱいの私の耳に響き、私の身に届くとき、自他の分別を超えた世界、阿弥陀如来の真実の世界、阿弥陀如来の願いに目覚めさせられるのであります。
2005年10月16日日曜日
「あなたが大切だ」 音更町 西然寺 白木幸久
遠くの山々では、もう「白い便[たより]」が届いているとのこと。秋のお彼岸も過ぎ、一日一日冬支度[ふゆじたく]が進んでいる、今日この頃です。健康とは、「体は健[すこ]やかに、心は康[やす]らかに」という意味だそうですが、皆様、健康な日々を送っていられるでしょうか。
先日のことですが、「滝川市内の小学校で自殺」とのニュースが流れていました。朝、登校してきた同級生が、教室で首をつって、ぐったりしている女の子を発見。先生が人工呼吸して、救急車で病院に運びましたが、意識不明の重体とのことでした。
どういう理由で自殺しようとしたか、どんな悩みを抱えていたのか、定かではありませんが、小学6年生といえば、まだ11歳か12歳。同じような年頃の子を持つ親として、胸の痛みとともに、我が子への不安をかき立てられました。
同じく、6月のことでしたか、長崎県佐世保市で、小学6年の女の子が同級生の首をカッターナイフで切って、殺害した事件が起こりました。後からの真相によれば、血が噴き出して、動かなくなっていく姿を、しばらくじっと見ていたとのことです。何のことはない、いつ生き返るかと思って見ていたらしいのです。その後の調査でも、「人は死んでも生き返ると思っている小学生が多い」との報告には、びっくりさせられました。まさか、自殺を試みた女の子も、自分は生き返られると思って、自殺したわけではないでしょうが……。
「人生は苦なり」とは、そのために仏教をお開きになった、お釈迦様の言わずと知れたおことばですが、自分の人生、自分の命を簡単に終えていこうとする、子どもたちがいます。以前でしたら、取るに足らない子どもの自殺は考えられなかったのですが、簡単な理由で、命を絶っていく子どもたちがいます。またその一方で、簡単な理由で、人の命を傷つけ、奪っていく子どもたちがいます。一体、いつのころから、いのちがこんなにも軽くなったのでしょうか。
目の前の生き物たち、地をはうもの、海を泳ぐもの、空を飛ぶもの、この世に生きとし生けるものたちはみな、いのちを惜しみながら必死に生きようとしています。私たちがつかまえようとすれば、必死になって逃げまどいます。だれも好んで、つかまろうとはしません。
世の中に生きる無数の生き物たちのなかで、人間として生まれてくることは、すくいあげる砂ほどにまれなことなのです。お釈迦様は、人間として生[せい]を享[う]けたという、希有[けう]なことを自覚してほしいと説きました。でも、現実に生きている私たちには、「希有な生を享けた」という実感がわくこともなく、毎日に追われています。それこそが、自殺を試みたり、他人を簡単に殺そうとする事件を生み出す背景となっているように思われます。
人間は、ほかの生き物と違って、自分で自分を見つめることができます。自分の良いとこ、悪いとこ、自分の弱さや不安、さらにはいのちの果てまで、自分で計り知ろうとします。これを「自覚」といますが、この自覚こそ、私たちに、大いなるエネルギーを与えます。自分が人間として生まれたことや、いまこうして、いのちがあることの有り難さの「自覚」が、いまを精一杯生きようとする力となるのです。
「命は地球よりも重い」とは言われますが、
と新聞広告にありました。そう言ってあげてほしいと思います。そのほうが、どんなにか、子どもの心に響くことか……。
改めて、私たちは、子どもたちがどれほどの尊いいのちを持っているかを自覚し、父母の立場にあれば、「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも本当にうれしい。あなたは大切な人」と、いつでも語って聞かせてあげてください。祖父母の立場ならば、なおさらのこと、お孫さんがかわいく思えることでしょう。ですから「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも、本当にうれしく思っている。おじいちゃんとおばあちゃんもそう。あなたは大切な人なのよ」と、何度でも語ってほしいと思います。それが、自分のいのち、そして自分以外のいのちの大切さを知る第一歩になっていくと思います。
先日のことですが、「滝川市内の小学校で自殺」とのニュースが流れていました。朝、登校してきた同級生が、教室で首をつって、ぐったりしている女の子を発見。先生が人工呼吸して、救急車で病院に運びましたが、意識不明の重体とのことでした。
どういう理由で自殺しようとしたか、どんな悩みを抱えていたのか、定かではありませんが、小学6年生といえば、まだ11歳か12歳。同じような年頃の子を持つ親として、胸の痛みとともに、我が子への不安をかき立てられました。
同じく、6月のことでしたか、長崎県佐世保市で、小学6年の女の子が同級生の首をカッターナイフで切って、殺害した事件が起こりました。後からの真相によれば、血が噴き出して、動かなくなっていく姿を、しばらくじっと見ていたとのことです。何のことはない、いつ生き返るかと思って見ていたらしいのです。その後の調査でも、「人は死んでも生き返ると思っている小学生が多い」との報告には、びっくりさせられました。まさか、自殺を試みた女の子も、自分は生き返られると思って、自殺したわけではないでしょうが……。
「人生は苦なり」とは、そのために仏教をお開きになった、お釈迦様の言わずと知れたおことばですが、自分の人生、自分の命を簡単に終えていこうとする、子どもたちがいます。以前でしたら、取るに足らない子どもの自殺は考えられなかったのですが、簡単な理由で、命を絶っていく子どもたちがいます。またその一方で、簡単な理由で、人の命を傷つけ、奪っていく子どもたちがいます。一体、いつのころから、いのちがこんなにも軽くなったのでしょうか。
目の前の生き物たち、地をはうもの、海を泳ぐもの、空を飛ぶもの、この世に生きとし生けるものたちはみな、いのちを惜しみながら必死に生きようとしています。私たちがつかまえようとすれば、必死になって逃げまどいます。だれも好んで、つかまろうとはしません。
世の中に生きる無数の生き物たちのなかで、人間として生まれてくることは、すくいあげる砂ほどにまれなことなのです。お釈迦様は、人間として生[せい]を享[う]けたという、希有[けう]なことを自覚してほしいと説きました。でも、現実に生きている私たちには、「希有な生を享けた」という実感がわくこともなく、毎日に追われています。それこそが、自殺を試みたり、他人を簡単に殺そうとする事件を生み出す背景となっているように思われます。
人間は、ほかの生き物と違って、自分で自分を見つめることができます。自分の良いとこ、悪いとこ、自分の弱さや不安、さらにはいのちの果てまで、自分で計り知ろうとします。これを「自覚」といますが、この自覚こそ、私たちに、大いなるエネルギーを与えます。自分が人間として生まれたことや、いまこうして、いのちがあることの有り難さの「自覚」が、いまを精一杯生きようとする力となるのです。
「命は地球よりも重い」とは言われますが、
命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千何万回言われるより、あなたが大切だ、誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける
と新聞広告にありました。そう言ってあげてほしいと思います。そのほうが、どんなにか、子どもの心に響くことか……。
改めて、私たちは、子どもたちがどれほどの尊いいのちを持っているかを自覚し、父母の立場にあれば、「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも本当にうれしい。あなたは大切な人」と、いつでも語って聞かせてあげてください。祖父母の立場ならば、なおさらのこと、お孫さんがかわいく思えることでしょう。ですから「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも、本当にうれしく思っている。おじいちゃんとおばあちゃんもそう。あなたは大切な人なのよ」と、何度でも語ってほしいと思います。それが、自分のいのち、そして自分以外のいのちの大切さを知る第一歩になっていくと思います。
2005年9月1日木曜日
「「今」を生きる」 浦幌町 太子寺 皆川隆信
まだまだ残暑厳しい日が続く今日この頃ではありますが、皆様いかがお過ごしでしょう。
今年の天候は、異常というほど、寒暖の差が激しく、体調がおかしくなる程です。7月だというのに寒い日が続き、朝晩はストーブをつけていたかと思えば、8月に入ってからはいきなり猛暑となり、急いで扇風機をつけている始末です。寒ければ寒いと文句を言い、暖かくなればいいなあと思い、暑くなれば暑いと愚痴を言い、涼しくなればいいなあと願っています。私の本当の心の中を考えてみると毎日毎日が不平不満そして愚痴いっぱいの日暮らしであります。もう二度とは来ないこの「今」を誠実に謙虚に有難く生きているかといえば、そうではないなぁーと思わされることであります。
有名な布教使の先生が百歳になられた時のことです。ある出版会社の記者がインタビューに来ました。ご高齢である布教使の先生は大変耳が遠く、付き人をまじえて対談をしました。出版社の記者が、「長生きの秘訣は何ですか」とたずねると、付き人が布教使の先生の耳もとで大きな声で、「長生きの秘訣は何ですかと聞いておられます」と叫びます。すると、布教使の先生は、「う~ん、よく食べてよく働いてよく眠ることかぁ」と答えました。こんな感じで対談は進んでいきました。最後の方で記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。付き人からこの質問を聞いた布教使の先生は、「あなたは今、何歳ですか」と逆に質問しました。記者はすぐに「43歳です」と答えると、布教使の先生は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは43歳の時です」と答えました。
次の日、違う出版会社の記者が来て、同じようにインタビューをしました。記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。布教使の先生は、昨日と同じように、「あなたは今何歳ですか」と逆に質問しました。「私は55歳ですが…」と記者が答えると、「私は今まで生きてきた中で一番良かったのは55歳の時です」と言いました。
昨日は43歳が、今日は55歳が一番良かったと答えています。しかしながら、布教使の先生がおかしなことを言っているのではありません。「今」この時が、一番大切でかけがえのない時間であるということを言いたかったのです。
不平不満、愚痴いっぱいの毎日が、この今が、この一瞬が、阿弥陀様のはたらきの中でありましたとよろこばせていただくことであります。
今年の天候は、異常というほど、寒暖の差が激しく、体調がおかしくなる程です。7月だというのに寒い日が続き、朝晩はストーブをつけていたかと思えば、8月に入ってからはいきなり猛暑となり、急いで扇風機をつけている始末です。寒ければ寒いと文句を言い、暖かくなればいいなあと思い、暑くなれば暑いと愚痴を言い、涼しくなればいいなあと願っています。私の本当の心の中を考えてみると毎日毎日が不平不満そして愚痴いっぱいの日暮らしであります。もう二度とは来ないこの「今」を誠実に謙虚に有難く生きているかといえば、そうではないなぁーと思わされることであります。
有名な布教使の先生が百歳になられた時のことです。ある出版会社の記者がインタビューに来ました。ご高齢である布教使の先生は大変耳が遠く、付き人をまじえて対談をしました。出版社の記者が、「長生きの秘訣は何ですか」とたずねると、付き人が布教使の先生の耳もとで大きな声で、「長生きの秘訣は何ですかと聞いておられます」と叫びます。すると、布教使の先生は、「う~ん、よく食べてよく働いてよく眠ることかぁ」と答えました。こんな感じで対談は進んでいきました。最後の方で記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。付き人からこの質問を聞いた布教使の先生は、「あなたは今、何歳ですか」と逆に質問しました。記者はすぐに「43歳です」と答えると、布教使の先生は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは43歳の時です」と答えました。
次の日、違う出版会社の記者が来て、同じようにインタビューをしました。記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。布教使の先生は、昨日と同じように、「あなたは今何歳ですか」と逆に質問しました。「私は55歳ですが…」と記者が答えると、「私は今まで生きてきた中で一番良かったのは55歳の時です」と言いました。
昨日は43歳が、今日は55歳が一番良かったと答えています。しかしながら、布教使の先生がおかしなことを言っているのではありません。「今」この時が、一番大切でかけがえのない時間であるということを言いたかったのです。
不平不満、愚痴いっぱいの毎日が、この今が、この一瞬が、阿弥陀様のはたらきの中でありましたとよろこばせていただくことであります。
合掌
2005年7月1日金曜日
「仏法は身体で聞く」 新得町 新泉寺 高久教仁
よく法座などのお説教の中で「仏法は耳で聞くのではなく、身体で聞くものですという言葉を耳にいたしますが、これはどういうことでしょうか。
今年は例年になく遅い春でありましたが、それでも5月も中旬を過ぎると野山の草木も青々と芽吹き、新しい命の声に力を頂ながら日々の法務を動めております。
そんな中、先日、ある一人暮らしのおばあさんのところへ月忌参りにお伺いしたときの話です。
早朝、いつものようにおばあさんのお宅の門をくぐり、右手に畑を眺めながら玄関に向かうわけでありますが、なにやらいつもと違う景色に驚いた私は、玄関に入るなりおばあさんに尋ねました。
「おばあちゃん、畑どうしたい。耕してあるじゃないか。また、無理して。体、大事にしなきゃ駄目だよ!」
というのもおばあさんは、20年程前にご主人を亡くされてから、2人のお子さんが札幌方面に就職されていたこともあって1人暮らしとなり、少しでも家計のためにと宅地の周りの庭を畑に耕して、大根や小豆、カポチャやキュウリなど立派な野菜を作ってはお子さんたちに送ってあげることが一番の楽しみになっていましたが、5年ほど前から関節痛、腰痛に悩まされ、最近は歩くのも杖をついてやっとという状態で、自慢の畑もこの2年間は休んでおられました。それなのにその畑が縞麗に耕してあるではないですか。
おぱあさんのいうには、この2月にお兄さんが亡くなり、今は転動で函館にいる息子さんが葬儀のために帰省され、たとき、あまりの大雪だったので葬儀の後1泊をして、家の周りを椅麗に除雪をしていってくれたそうです。その後、何を思ったのか5月の連休に突然訪ねてきて休んでいた畑を耕していったそうです。葬儀のときに会った母はぴっくりする程年老いていて、息子さんもお母さんのために何かせずにはおられなかったのでしょうか。
「おばあちゃん、それは良かったね。息子さんに会えたのも、また野菜が作れるのもネ!」
ところがおばあさんは言い返します。
「いや、いや、見てご覧なさい。今まで畑なんかいじったことのない息子だから…こんなのは土をひっくり返しただけで耕したとはいえないねえ」とかなり不満そう。
「おぱあちゃん、息子さんにまさかそんなことをいったんじゃないだろうね。」
おばあさんは少し考えてからこう言いました。
「厳しく育ててきた息子でねえ。こんな仕事しかできないと思うと情けなくてねえ。のどもとまで出かかったけれどもねえ…口から出てきた言葉は『遠くからすまなかったねえ、ありがとねえ』という感謝の言葉だったんだよねえ。不思議とねえ…考えてみたら、私がもう少し元気だったらきっと『なにやってんの』と叱りつけていただろうねえ。私の弱った、老いたこの体が、息子の優しい気持ちを素直に受け止めさせてくれたのかねえ。何だか有り難いねえ。なんだかねえ。」
なんと深い味わいでしょうか。
頼りにしているこの私自身が一番頼りにならないものだとわかったとき、今まで見えなかったもが見えてきたり、聞こえなかったものが聞こえてきたりする。この味わい。私は今まで聞かせて頂いたことの実践静で聞くことであると思っておりましたが…。
「仏法は身体で聞く」
日々壊れゆく、変化してゆくこの身体こそが仏法の真実を私に教えてくださっているのだと改めてこのおばあさんのお言葉に教えて頂きました。
なもあみだぶつなむあみだぶつ
今年は例年になく遅い春でありましたが、それでも5月も中旬を過ぎると野山の草木も青々と芽吹き、新しい命の声に力を頂ながら日々の法務を動めております。
そんな中、先日、ある一人暮らしのおばあさんのところへ月忌参りにお伺いしたときの話です。
早朝、いつものようにおばあさんのお宅の門をくぐり、右手に畑を眺めながら玄関に向かうわけでありますが、なにやらいつもと違う景色に驚いた私は、玄関に入るなりおばあさんに尋ねました。
「おばあちゃん、畑どうしたい。耕してあるじゃないか。また、無理して。体、大事にしなきゃ駄目だよ!」
というのもおばあさんは、20年程前にご主人を亡くされてから、2人のお子さんが札幌方面に就職されていたこともあって1人暮らしとなり、少しでも家計のためにと宅地の周りの庭を畑に耕して、大根や小豆、カポチャやキュウリなど立派な野菜を作ってはお子さんたちに送ってあげることが一番の楽しみになっていましたが、5年ほど前から関節痛、腰痛に悩まされ、最近は歩くのも杖をついてやっとという状態で、自慢の畑もこの2年間は休んでおられました。それなのにその畑が縞麗に耕してあるではないですか。
おぱあさんのいうには、この2月にお兄さんが亡くなり、今は転動で函館にいる息子さんが葬儀のために帰省され、たとき、あまりの大雪だったので葬儀の後1泊をして、家の周りを椅麗に除雪をしていってくれたそうです。その後、何を思ったのか5月の連休に突然訪ねてきて休んでいた畑を耕していったそうです。葬儀のときに会った母はぴっくりする程年老いていて、息子さんもお母さんのために何かせずにはおられなかったのでしょうか。
「おばあちゃん、それは良かったね。息子さんに会えたのも、また野菜が作れるのもネ!」
ところがおばあさんは言い返します。
「いや、いや、見てご覧なさい。今まで畑なんかいじったことのない息子だから…こんなのは土をひっくり返しただけで耕したとはいえないねえ」とかなり不満そう。
「おぱあちゃん、息子さんにまさかそんなことをいったんじゃないだろうね。」
おばあさんは少し考えてからこう言いました。
「厳しく育ててきた息子でねえ。こんな仕事しかできないと思うと情けなくてねえ。のどもとまで出かかったけれどもねえ…口から出てきた言葉は『遠くからすまなかったねえ、ありがとねえ』という感謝の言葉だったんだよねえ。不思議とねえ…考えてみたら、私がもう少し元気だったらきっと『なにやってんの』と叱りつけていただろうねえ。私の弱った、老いたこの体が、息子の優しい気持ちを素直に受け止めさせてくれたのかねえ。何だか有り難いねえ。なんだかねえ。」
なんと深い味わいでしょうか。
頼りにしているこの私自身が一番頼りにならないものだとわかったとき、今まで見えなかったもが見えてきたり、聞こえなかったものが聞こえてきたりする。この味わい。私は今まで聞かせて頂いたことの実践静で聞くことであると思っておりましたが…。
「仏法は身体で聞く」
日々壊れゆく、変化してゆくこの身体こそが仏法の真実を私に教えてくださっているのだと改めてこのおばあさんのお言葉に教えて頂きました。
なもあみだぶつなむあみだぶつ
登録:
投稿 (Atom)