2004年2月1日日曜日

「耳をすまして‥‥」 足寄町 照経寺 鷲岡康照

 人間の顔には、「食べる」・「話す」という二つの役目がある口が一つ、そしてただ「聞く」という一つの役目をはたす耳は二つ付いています。反対の方が合理的のようにも思いますが、西洋の哲学者の説によると、「話す倍ほど、聞きなさい」と、神さまがそのように人間を作られたそうです。ですが、ついつい「聞く倍ほど、話す」、つまり、自分の主張を通すことばかりを願うのが私です。

 大海原をゆく船にとって、大切なものの一つに、無線による通信があります。ところが、その大切な無線を一時間に二回ほど、三分間ずつ、すべての船が一斉に中断するということが、電波法で定められていたそうです。その理由は、小さな船が遭難して発信しているかもしれない「SOS」、つまり「助けてください!」という電波を聞き漏らさないためだそうです。

 今、出力の小さい電波で、必死に助けを求めている船があるかもしれない‥‥。
 だから、世界中の大きな船も小さな船も、みんながピタッと通信を止めて耳を傾けている‥‥。

 なんだか、想像しただけで胸が熱く、嬉しくなりました。

 ところが、ふと現実に目を向ければ、朝から晩まで自分の思いを発信するばかりの、我[が]を通そうとするばかりの自分がありました。

 それならば、船のように三十分ごとでなくとも、せめて一日に一度、発信器のスイッチを切ってみたいものです。そうすれば、聞き漏らしていた大切な声が聞こえてくるかもしれません。

 仏さまの前に座り、静かに手を合わせる時を持たせていただくのは、「心の無線機」を停止するための貴重なひとときなのかもしれません。

2004年1月16日金曜日

「挨拶の意味」 広尾町 光音寺 頼田 享

 今回のテレホン法話は、挨拶[あいさつ]について、私ともども考えてみたいと思います。

 私たちは日々朝から晩まで、会う人々に挨拶をします。でも挨拶は何のためにするのか、どうしてしなければならないのか、知る人は少ないように思うのです。

 辞典で見ますと、「人と会った時の儀礼的な言葉や動作」と書いてあります。でも私は挨拶を、別のことだと思うのです。それは、顔を見たり、人々を見たり、その人々に対して、命を認めることだと思うのです。

 先日、家の娘が、「お父さん、挨拶って何のためにするの?」と聞いてきました。私は「学校の先生は何と言ったか?」と聞きますと、辞典の通りの答えでした。

 でもお念仏の命を見ていく考えからすると、命の確認だと思うのです。

 子どもが朝、学校へ行くときに「行ってきます」。親が「行ってらっしゃい」。これは《子どもが無事に学校へ行ったな》と親が安心することです。学校から帰ってくると、「ただいま」。親は「お帰り」と挨拶をして、親も子もともに無事を確認するのです。

 近年、子どもに対する事件が多発していますが、まず家族や仕事場で、挨拶を、命を見ていく時だと思うのです。

2003年12月16日火曜日

「誕生を見つめて・・・」 音更町 光明寺 臼井教生

 浄土真宗の教えとは、今を生きている、厳密に申せば生かされている、この私のいのちを見つめさせていただく教えであります。

 私事になりますが、10月に子どもが誕生しました。私も出産に立ち合いましたが、陣痛が始まってから出産までの道のりは誠に険しいものであります。

 「痛い痛い」と叫ぶ妻に何もしてやれない切なさや、弱音を聞くたびに10ヵ月間の努力やたくさんの思い出が浮かび、目頭が熱くなりました。

 そうこうしているうちに、いよいよくらいまっくす。母子ともにいちばん辛い時期であります。私も助産師さんについて、「ヒーヒーフー、ヒーヒーフー」と声をかけます。そして12時間かけて、ついに誕生です。10ヵ月間母親の胎内で育ち、そしてこの世に誕生させていただいた姿はまさに感動そのもので、その時の感想はと言うと、「生まれて来てくれてありがとう!」の一言でした。出産後に先生より胎盤も見せてもらいましたが、これに対してもただ「10ヵ月間ありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいでした。

 一般的に、誕生は華やかであり、反対の死に関しては暗いイメージがあります。しかし浄土真宗の教えでは、生と死を別のものとは捉えず、「生死一如」[しょうじいちにょ]とあるように、一つのものと説きます。こうした中、お釈迦さまが説かれているように、いま生まれて来てくれた、この子もまた、「生老病死」[しょうろうびょうし]という厳しい現実を生きていかなければなりません。まさにいずれは迎えなければならない死への秒読みが始まったんだなと実感しました。

 このように申しますと、「お寺さん、生まれた側から悲観的ですね」と思う方もおられるかもしれません。しかし決して悲観ではありません。これが事実なのであります。そしてまた、私もそのうちの一人なのだと再認識させていただきました。

 現実の苦しみから目をそらさない。ありのままを見つめさせていただくのが仏教の教えであります。ですが、実際にはなかなか直視できないのがこの私であります。しかしながら、このような私を見捨ててはおられないと願われたお方こそが、阿弥陀さまでありました。

 そして、「そのままの姿で救うぞ!」「ただお念仏を称えてくれるだけで、誰一人、漏らさずに救うぞ!」という阿弥陀さまのおこころを学ばせていたえだくのが、浄土真宗の教えであります。

 この度の子どもの誕生を見て、「私もまた、同じように母親が大変な思いをして生んでいただいた。そして私の親もまた同じように生まれさせていただいたのだ」と、いのちのロマンを感じました。

 まさにこれは「いのちのリレー」と呼べるのではないでしょうか? そして命の尊さ、大切さを次の世代へとバトンタッチする。これがお念仏の相続であります。

 現在2ヵ月目に入り、お陰さまで元気に育っております。親となってまだ2ヵ月ですが、ともに育てられる日暮らしを遅らせていただきたいと思います。

2003年12月1日月曜日

「人生の一大事」 大樹町 光教寺 岩崎教之

 今年もいよいよ師走に入り1年がもう終わりますが、私たちが人生を生き抜いていくとき、さまざまな終わりがあります。学生生活の終わり、サラリーマンとしての終わり、そして人生の終わり。

 どれをみても大切な人生の区切りです。それらの終わりを迎える時に、何とか充実した終わりを迎えたいと誰もが思い力をしますが、終わりが近づけば近づくほど、「ああもすればよかった、こうもすればよかった」という思いが強くなるものです。けっして怠けたわけではないのにそういう思いが強くなります。

 源信和尚[げんしんかしょう 942-1017]は『往生要集』に、自分の人生が終わろうとしているにもかかわらず、肝心な自分の「いのち」の問題には全く無関心で、どうなっても大したことはない事柄の方が気になり、「あれもしたい、これもしたい」という人間の有りさまを示しておられます。

 そして、せっかく人間として生まれさせていただいたのだから、人間の身勝手な思いに振り回されることなく、ひとときでも早く仏法を弔問して、もっとも大切なことは何かをはっきりさせるべきだ、と教えてくださっています。

 では、いったい人間として最も大切で、このことだけは獲得しておかなければ、他の全てのことが意味を失うような事柄とは何なのでしょう?

 私たちの日常生活は、日々煩悩に支配され、苦悩なしに生きていけません。その人間の根本苦から解放し、安らかな浄土へと導くために説き開かれたのが「お念仏」の「み教え」[みおしえ]です。そのみ教えは、凡夫である私たちが、阿弥陀如来の智慧の光に照らされ、自己と如来の真実を教えてくださるものです。それは、世俗の営みと煩悩の支配の中でしか生きることのなかった私たちが、如来さまのお言葉に耳を傾け、浄土をめざして生きる人間にお育てくださるものです。み教えに遇うことこそ「人間としてのいのちを生きる意味」なのです。

 損得に縛られ、本当に大切なことは何かが分からない私たちを、如来さまは私たちに先立って心配し、途方もなく長い思惟[しゆい]の後、私たちを救うために与えてくださったお言葉こそ「南無阿弥陀仏」の名号なのです。

 私たちは人間として「いのち」を恵まれました。そしてこの「いのち」は浄土へと帰りゆくべき尊い意味をもっていると知らされました。人間の身には終わりがありますが、この身の終わりが如来さまへの仲間入りと聞かされ、生と死を超えることができそうです。これもすべてお念仏のはたらきです。このはたらきをよろこべるかどうか・・・。これこそ人間としての一大事であります。

2003年11月1日土曜日

「真の心の自由・その生活を送るために」 幕別町 義教寺 梅原了圓

 私たちは縁あって尊い命をいただき、さまざまな思いの中、自由で満たされた幸せな生活を営むという目的のもと歩みを進めています。

 幸せとは、どのようなものでしょうか。幸せだと感じることは、人によって様々な違いがあるように思われます。そして、突き詰めて考えますと、人のさまざまな行為というものは、実は幸せを求める中、その方向性を持っての手段を行っているに他なりません。幸せとは、その方に内在する心が、それぞれの思いの中で感じる世界なのです。その幸せを求めて生活を営む時、私たち一人一人が忘れてならないのは「共々に」ということであります。

 菩薩さまの行の基本理念に、「自利利他円満」[じり・りた・えんまん]ということが説かれています。これは。私たち社会に生きる人々すべてが、大切にしなければならない基本的な生活指針でもあると味わうものです。すなわち、自らが行う行為が他をも利するものであること、幸せに導くものであって、他を害したり、悲しみを与えるものであってはならないことを、そのことは教えてくださっています。

 私たちの心には、自己中心的な考えが内在します。そして、その心こそが、自らが求めている「共々に幸せでありたい」との願いから遠ざけている最大の原因と、仏さまは教えてくださっているのです。

 それぞれが持つ自己中心的な姿が結果的に幸せを阻害[そがい]し、ひいては社会の様々な不幸を招いていることを、一人一人が自覚しなければなりません。仏法を自らの鑑[かがみ]とし、自らを常に見つめた生活を大切にしたいものです。その生き方が、「心の自由」につながる大切な道となるのです。

 今、私たち日本人は、教育・科学・文化等、様々な面で恵まれた生活に身をおいているのでしょう。しかしながら、現実の私たちの歩みはどうでしょうか。日や数字によっての吉凶、あるいは、占い・祈祷[きとう]等に頼り、たたり・さわりを気にしながらの生活を送っている姿に直面します。現実は、決して真に自由な心の歩みとは言えない私にきづかされます。社会的には、言論・信教・結社・職業・婚姻等という自由が法のもとに保障されてはいますが、現実には内外にあっていろいろな問題を抱えております。また、私たちの心には、絶えず貪り[むさぼり]・怒り・愚かさから離れられない現実の自己があります。

 このような様々な状況を抱える身にあって、如来さまの「み教え」[みおしえ]に出遇い、慈光のもと、お念仏を心に生きていくということは、どのような姿に生きることを示しているのでしょうか。ご開山聖人[ごかいさんしょうにん・親鸞聖人のこと]は、私たちに「念仏者は、無碍[むげ]の一道なり」とお示しくださいました。念仏者は諸々の心の束縛から解放され、真の自由の身にならせていただくという「念仏者の歩みの姿」をお伝えくださいました。

 『蓮如上人御一代記聞書』[れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき]に述べられる「仏法を心の主[あるじ]とし」を自らの生活の中で大切にいただきたいと思う次第です。

 どうか、今後とも仏法を聴聞[ちょうもん])するということを、日々、生活の中で怠りなく、と願うものです。

 南無阿弥陀仏。

2003年9月16日火曜日

「揃っていることと、違っていること。」 音更町 妙法寺 石田秀誠

 豊穣の秋になりました。春早くから丹誠込めて育てた作物の収穫の時期になります。「秋には一粒の雨もいらない。」と、農家の方は言います。天気を気にしながらの農作業が続きます。より良い状態での収穫を願って、寝る間も惜しんで、無理を承知で進めることもしばしばなので、疲れから来る病気と作業事故が心配です。

 畑を見まわすと、どの作物も背丈が揃っていることにビックリします。スイートコーンや飼料用とうもろこしのデントコーンなどは本当にきれいです。

 背丈が揃っているのはとても美しく見えます。採れる作物もかたちや大きさが揃ったものになっているようです。私たち消費者も、いつの間にか、お店で買い物をする時に、よりかたちの良いもの、揃ったものを求めています。ところが、生産者のところでは、かたちと大きさを揃えるのに、ものによっては、お店で並べられるものよりも多くのものがすてられているのだそうです。ニンジンも大根もキュウリも、そして多くの野菜などがそうです。

 私も何かをする時に、まわりを見て、人に合わせようとする心が働きます。協調するのとは違って、当たり障りのないことを選んでいるのです。極端な表現をすると、自分と違った人がいると「変だな?」と思うようになってしまっているのです。恐ろしいことだと思います。

 「野菜のかたちなんかどうでもいいや」「そのものを味わっていこう」と思った時、今まで忘れていたものに気づくこともあるかもしれません。

 野菜も人も一緒だと思います。親と子・兄妹・姉妹・叔父叔母・友人・ことば・考え方・思想・政治体制・宗教・いままで生きてきた歴史・住んでいたところ・気候風土、‥‥どれも一緒に共有できたら楽しいことばかりです。しかし、違っている人もなんて多いことでしょう。この地球上でそれぞれが認めあって、ゆるしあって、支えあって、また時には知らないうちに人を傷つけていたりしている自分があります。そんな私を「それでいいんだよ」と、ほほえんでくださる方がおられるそうです。それが阿弥陀さまです。

 大きな違いも、小さな違いも、それぞれの特徴としてみていきたいものですね。

2003年9月1日月曜日

「智慧と知識」 新得町 立教寺 千葉照映

 釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
  願作仏心はえしめたる
  信心の智慧にいりてこそ
  仏恩報ずる身とはなれ

 智慧の念仏うることは
  法蔵願力のなせるなり
  信心の智慧なかりせば
  いかでか涅槃をさとらまし
(『正像末和讃』34・35)


 私たちの人生は価値の追究であると行って良いのではないでしょうか。

 権力というものに価値を認める人、金銭に価値を認める人、あるいは健康に価値を認める人、また、物質的なものに価値を見出していく人など様々でありましょう。

 私の部屋に置いてあるもののほとんどは、私にとって何らかの形で価値のある物ばかりであります。もし価値観をまったく認めないのであれば、恐らく捨ててしまうでしょう。私たちはその価値を認めたものを追究するために毎日毎日働き、そして一つ一つ手に入れていくのであります。

 さて、そのものに価値を認めた存在、あるいはまったく認めない存在というものがあるかのように思えますが、実際には存在そのものに価値があるわけではないのであります。

 その存在しているものを価値づけていくことの出来る力を「知識」と言うのであります。

 ところが、その価値というものを見出すことの出来るものばかりが存在しているわけでありません。

 たとえ価値を見出すことのできないものの中にも深い意味があるということを知る力を「智慧」というのであります。

 たとえば、一輪の枯れてしまった花があるとしましょう。

 枯れ果ててしまった花には価値はないかも知れませんが、その一輪の花が咲くためには去年の種がなければ、その前の年の種が、そして、光がなければ、水がなければ、さまざまな縁がなければ、咲くことはなかったのであります。

 無限に永い生命の歴史がなければ、その花の存在そのものが無かったことを知るとき、そこには深い意味があるということを知らされるのであります。

 たとえ価値なきものの中にも深い意味を感じ取る力を「智慧」と言うのであり、それを信心と言うのであります。