早くも11月に入りました。アテネ・オリンピックや甲子園の高校野球で手に汗を握った夏がつい昨日のように思われます。オリンピックでは日本のメダル獲得数が史上最多ということで、日本選手の活躍が印象に残りました。オリンピックの期間中ずっと寝不足という方もおられたことでしょうね。それもそのはず、陸上の短距離や、競泳では0秒01という単位で速さが競われますものね。つまり1秒の100分の1の争いです。
ところで、仏教で言う最も短い時間の単位は「刹那」[せつな]といいます。
ものの本によりますと、この「刹那」は75分の1秒に相当するんだそうです。陸上や競泳での100分の1秒の争いというのはこの「刹那」よりももっと細[こまか]いわけです。でも100分の1秒くらいで驚いていちゃいけないんですね。カメラのシャッタースピードなんて2000分の1秒、3000分の1秒というのがあるそうですから。科学の進歩って凄[すご]いですね。
ところでまた仏教の話に戻りますが、この75分の1秒という「刹那」を単位として、この世の物事はすべて生滅[しょうめつ]を繰り返すというのが仏教の教えです。
よく私たちは「アッという間」とか「一瞬のうちに」などと言いますが、そんなもんじゃないよということです。
こういうふうに頂きますとね。お歳を召した方の口から「歳をとると一年とも言われないですね」という言葉を聞くことがありますが、そして私自身もその言葉が他人事でなく心に響くようになってきましたが、一年とも言われないなんてずいぶん悠長な言葉なんだなとつくづく知らされます。一年や一月[ひとつき]ところじゃない、一日どころでもない、一秒とも言われない世界がこの娑婆世界なのですね。ところが私たち凡夫はこのことをなかなか気づこうとしないのです。
でも、こう考えますとね。
激しい無常の風にも誘われることなく、一年どころか一日だけでも命が延びたということは、本当に凄いことなのですね。普段は何とも思わずに過ごしていますが、一日無事に過ごさせて頂いた、朝また目が醒めたというこの単純な繰り返しが、実は本当に尊ぶべきことなのかと味合わせて頂きます。
2004年11月16日火曜日
2004年10月16日土曜日
「ただ念仏のみぞまこと」 芽室町 大船寺 三浦敬篤
本日は、浄土真宗、親鸞さまの「み教え」とは、どのような教えであるかということを、お話しさせていただきます。
もともと、浄土真宗は念仏を称名[しょうみょう]する、南無阿弥陀仏[なもあみだぶつ]と仏さまのお名前を呼ぶということに尽きるのではありますが、しかし今、お念仏の声がはたして聞こえてくるでしょうか? 残念ながら、お念仏の声がいまの時代、なかなか聞こえてこなくなったように思います。
なぜ私たちは、お念仏を申さなければならないのでしょうか?
よく親にたとえられていわれます。つまり親の名前を呼んだことのない人間に親の愛情はけっして知りえません。かつて思いおこせば、この私はどれだけ親の名前を呼びさけんだことでしょうか。うれしい時、かなしい時、いつもいつもお父さん、お母さん、と、親の名前を呼びさけんだ。そして、親を呼ぶ私の声がしらずしらずの間に私の心を育ててくれ、いつの間にか親の恩のありがたし、と思う身にさせていただいた。
それと同じです。仏さまの名前を呼んだことのない人間に、仏さまの心は決して知りえません。
そして、ただ単に仏さまのお名前を呼べば良いわけではありません。
親鸞さまは『歎異抄』[たんにしょう]のなかで
とお示しになってくださいました。つまりこの私が汗水流して必死になって集めてきた宝だと思ってきたすべてのものは、全部本物ではなくすべて偽物であったということです。そして、そう思いとることと一つとなって、「ただ念仏のみぞまことにておはします」なのです。
思えば、どんなに頼りとなる父親や母親、息子さんや娘さんがいようとも、いつかはさよならしなくてはいけないのです。自分が死ぬときには、なにひとつ持っていくことはできません。
では、何も持っていくことはできないのか?
私は、お念仏だけ、持っていけると思うのです。そして本当に残すことのできる宝も、お念仏ただひとつだけなのです。
私は、そのことを親鸞さまは身をもって私に伝えてくれたのだと味あわせていただいております。
もともと、浄土真宗は念仏を称名[しょうみょう]する、南無阿弥陀仏[なもあみだぶつ]と仏さまのお名前を呼ぶということに尽きるのではありますが、しかし今、お念仏の声がはたして聞こえてくるでしょうか? 残念ながら、お念仏の声がいまの時代、なかなか聞こえてこなくなったように思います。
なぜ私たちは、お念仏を申さなければならないのでしょうか?
よく親にたとえられていわれます。つまり親の名前を呼んだことのない人間に親の愛情はけっして知りえません。かつて思いおこせば、この私はどれだけ親の名前を呼びさけんだことでしょうか。うれしい時、かなしい時、いつもいつもお父さん、お母さん、と、親の名前を呼びさけんだ。そして、親を呼ぶ私の声がしらずしらずの間に私の心を育ててくれ、いつの間にか親の恩のありがたし、と思う身にさせていただいた。
それと同じです。仏さまの名前を呼んだことのない人間に、仏さまの心は決して知りえません。
そして、ただ単に仏さまのお名前を呼べば良いわけではありません。
親鸞さまは『歎異抄』[たんにしょう]のなかで
よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにげおはします。
とお示しになってくださいました。つまりこの私が汗水流して必死になって集めてきた宝だと思ってきたすべてのものは、全部本物ではなくすべて偽物であったということです。そして、そう思いとることと一つとなって、「ただ念仏のみぞまことにておはします」なのです。
思えば、どんなに頼りとなる父親や母親、息子さんや娘さんがいようとも、いつかはさよならしなくてはいけないのです。自分が死ぬときには、なにひとつ持っていくことはできません。
では、何も持っていくことはできないのか?
私は、お念仏だけ、持っていけると思うのです。そして本当に残すことのできる宝も、お念仏ただひとつだけなのです。
私は、そのことを親鸞さまは身をもって私に伝えてくれたのだと味あわせていただいております。
2004年9月16日木曜日
「葬儀というご縁」 浦幌町 信行寺 岡西信行
人は誰しも会者定離[えしゃじょうり]・愛別離苦[あいべつりく]という経験をしながら生きています。
その中でとりわけ人が涙するのが葬儀の場面であります。
この葬儀はなんのために勤めるのでしょうか。
ほんの少しですが、浄土真宗の葬儀について基本的なことをお伝えいたします。
葬儀で多くの人がすぐに思い浮かべるのが、「引導を渡す」ということを考えておられます。この「引導」[いんどう]は、浄土真宗以外の仏教で、葬儀の際に導師が個人に行う儀式であります。この「引導」の本来の意味は「人々を正しい仏法に導く」というものでありましたが、現在では、葬儀の時に行われる作法となっています。
浄土真宗の葬儀では、この「引導を渡す」ということがありませんから、「引導を渡してもらえない者が成仏できるのですか」と聞かれることがあります。
浄土真宗で引導を渡すことをしないのは、親鸞聖人の教えと深くかかわりがあります。浄土真宗の教えの根本は阿弥陀如来のご本願[ほんがん]にあります。阿弥陀如来のご本願は誰のためにたてられ、救いの名号[みょうごう]は誰のために完成されたかということを、はっきり聞きわけた人を、信心をいただいた人といいます。南無阿弥陀仏のお心をしっかり受けとめた人は、お浄土に往生させていただくことが約束されております。この私の成仏をお約束してくださいましたのが阿弥陀如来さまであります。そうでありますから他宗のようにお葬式の時に引導を渡されなくても成仏させていただける私であります。
お葬式はその人の人生のしめくくりであり、命にかえて、会葬の人々にご縁を作ってくださっているとうけとめさせていただき、葬儀のご縁からお念仏を味わうようにして生活をさせていただきたいものであります。
その中でとりわけ人が涙するのが葬儀の場面であります。
この葬儀はなんのために勤めるのでしょうか。
ほんの少しですが、浄土真宗の葬儀について基本的なことをお伝えいたします。
葬儀で多くの人がすぐに思い浮かべるのが、「引導を渡す」ということを考えておられます。この「引導」[いんどう]は、浄土真宗以外の仏教で、葬儀の際に導師が個人に行う儀式であります。この「引導」の本来の意味は「人々を正しい仏法に導く」というものでありましたが、現在では、葬儀の時に行われる作法となっています。
浄土真宗の葬儀では、この「引導を渡す」ということがありませんから、「引導を渡してもらえない者が成仏できるのですか」と聞かれることがあります。
浄土真宗で引導を渡すことをしないのは、親鸞聖人の教えと深くかかわりがあります。浄土真宗の教えの根本は阿弥陀如来のご本願[ほんがん]にあります。阿弥陀如来のご本願は誰のためにたてられ、救いの名号[みょうごう]は誰のために完成されたかということを、はっきり聞きわけた人を、信心をいただいた人といいます。南無阿弥陀仏のお心をしっかり受けとめた人は、お浄土に往生させていただくことが約束されております。この私の成仏をお約束してくださいましたのが阿弥陀如来さまであります。そうでありますから他宗のようにお葬式の時に引導を渡されなくても成仏させていただける私であります。
お葬式はその人の人生のしめくくりであり、命にかえて、会葬の人々にご縁を作ってくださっているとうけとめさせていただき、葬儀のご縁からお念仏を味わうようにして生活をさせていただきたいものであります。
2004年9月1日水曜日
「浮力と他力」 浦幌町 太子寺 皆川隆信
今年は、例年になく大変な猛暑でありました。皆様、体調の方はいかがでしょうか。
ところで、皆様は、夏というと何を連想するでしょうか。暑い、すいか、花火、お盆など、人それぞれでありましょう。私は、夏というと海、そして海水浴を連想します。暑い日にただボケーッと海を見ているだけで大変涼しくなれます。また、暑い日に冷たい水の中を泳ぐことは、とても気持ちが良いことであります。しかしながら、私は水の中が大の苦手であります。つまり、カナヅチ、泳げないのです。小さい頃に小川でおぼれたことが原因なのでしょうか。水に顔をつけることにさえ恐怖心を抱きます。
10年前に友だちと海水浴へ行ったことがあります。泳げない私は、当然浮き輪をつけて、波打ち際で小さい子どもにまじって遊んでいました。友だちは、いい年をして浮き輪をつけて遊んでいたら恥ずかしいので、泳ぎ方を教えてやると言ってくれました。私も少しぐらいは泳げるようになった方が良いと思い、友だちに手を支えてもらい、練習したのですが、足を少しバタバタとしたら、ブクブクと水の中へ沈んでしまう有様であります。友だちが言うには、泳げるようになるには恐れずに水に浮くことが大切なことだそうです。水に浮くには、自分のすべての力を抜いて、水がもつ、物を浮かす力である「浮力」[ふりょく]にすべてを任せればいいそうです。つまり、水に浮くということは、浮力のはがらき以外の何物でもないのであります。しかし、私の場合、水に対する恐怖心のせいか、どうしても身体に力が入り、水に浮くことが大変難しいことなのです。
阿弥陀さまのはたらきは、この浮力のはたらきとよく似ていると思います。私は、自分の力ではお浄土に往生することはできません。私がお浄土に往生するには、自分の力やはからいを抜いて、すべてを阿弥陀さまにお任せすることです。すべての人を必ずお浄土に往生させたいという阿弥陀さまのご本願にすべてをお任せすることであります。
この私がお浄土に往生して、仏にならせていただくことは、阿弥陀さまのはたらき以外の何物でもないのであります。この阿弥陀さまのはたらきを「他力」[たりき]、「他力本願」と言うのであります。
この阿弥陀さまの「他力」のはたらきに、この私はもうすでにつつみこまれていたことを、お念仏を称[とな]えつつ、よろこびある人生を阿弥陀さまとともに歩ませていただきたいと思うことであります。
ところで、皆様は、夏というと何を連想するでしょうか。暑い、すいか、花火、お盆など、人それぞれでありましょう。私は、夏というと海、そして海水浴を連想します。暑い日にただボケーッと海を見ているだけで大変涼しくなれます。また、暑い日に冷たい水の中を泳ぐことは、とても気持ちが良いことであります。しかしながら、私は水の中が大の苦手であります。つまり、カナヅチ、泳げないのです。小さい頃に小川でおぼれたことが原因なのでしょうか。水に顔をつけることにさえ恐怖心を抱きます。
10年前に友だちと海水浴へ行ったことがあります。泳げない私は、当然浮き輪をつけて、波打ち際で小さい子どもにまじって遊んでいました。友だちは、いい年をして浮き輪をつけて遊んでいたら恥ずかしいので、泳ぎ方を教えてやると言ってくれました。私も少しぐらいは泳げるようになった方が良いと思い、友だちに手を支えてもらい、練習したのですが、足を少しバタバタとしたら、ブクブクと水の中へ沈んでしまう有様であります。友だちが言うには、泳げるようになるには恐れずに水に浮くことが大切なことだそうです。水に浮くには、自分のすべての力を抜いて、水がもつ、物を浮かす力である「浮力」[ふりょく]にすべてを任せればいいそうです。つまり、水に浮くということは、浮力のはがらき以外の何物でもないのであります。しかし、私の場合、水に対する恐怖心のせいか、どうしても身体に力が入り、水に浮くことが大変難しいことなのです。
阿弥陀さまのはたらきは、この浮力のはたらきとよく似ていると思います。私は、自分の力ではお浄土に往生することはできません。私がお浄土に往生するには、自分の力やはからいを抜いて、すべてを阿弥陀さまにお任せすることです。すべての人を必ずお浄土に往生させたいという阿弥陀さまのご本願にすべてをお任せすることであります。
この私がお浄土に往生して、仏にならせていただくことは、阿弥陀さまのはたらき以外の何物でもないのであります。この阿弥陀さまのはたらきを「他力」[たりき]、「他力本願」と言うのであります。
この阿弥陀さまの「他力」のはたらきに、この私はもうすでにつつみこまれていたことを、お念仏を称[とな]えつつ、よろこびある人生を阿弥陀さまとともに歩ませていただきたいと思うことであります。
合掌
2004年8月1日日曜日
「世界の中心は、どこなのか。」 清水町 妙覚寺 脇谷暁融
今回も、浄土真宗本願寺派、十勝組[とかち - そ]のテレホン法話にお電話いただきありがとうございます。
皆様は、いかがお過ごしでしょうか。いよいよお盆も近づき、夏の到来となりました。数年ぶりの猛暑で、連日に渡って寝苦しい夜が続きます。そのせいか、夏風邪もずいぶんと流行っており健康などの気遣いが多いかと思います。
暑さの中で、一軒一軒のお宅に参らせていただく、お盆参りも勤まっています。先立たれた多くの方々のいのちを大きなご縁といただき、古くからお付き合いのあるお宅ばかりでなく、近年になってご縁をいただいたお宅や、今年初めてお盆を迎えていただくお宅など、それぞれのきっかけが、それぞれのお宅にあってくださることと思います。私たちの人生において、さまざまな機会がめぐって、多くの尊いいのちを縁としていただくものです。
しかしながら、私たちはどこまでも自分だけを中心にして、ものを考えることをやめようとはしません。多くのいのちがあってこそ、私の命が、今日ここで生きている事実があるにもかかわらず、自己を中心として、自分のまわりに存在するものを、そしり、おとしめ、差別して生きているのではないでしょうか。
『世界の中心で愛を叫ぶ』という本が若者を中心にベストセラーとなり、映画化までなされました。その内容は純粋に他者との関係をいかに考えていくかというもので、端的な恋愛小説です。この中身について論じるものは何もありませんが、この題名でいう「世界の中心」とは、地球の一体どこにあるのでしょうか。
「世界の中心」はあくまで自分の存在のあるばしょから始まり、自分の存在を抜きにしては考えられない状況を示しています。自分のありようを正当化し、開き直るのも生き方かもしれませんが、それは私たちが拠り処としてきた、念仏の「み教え」とは大分違っているように思います。「世界の中心」としてしか考えが及ばない、考えることのできない自分のありようから、実は多くのいのちに支えられ、護られながら存在しているにもかかわらず、その姿に気づけない私がいるこの場所を、「世界の中心」と味わってみてはいかがでしょうか。
だからこそ、私のいのちが、ともに世界に生きる者たちのいのちと連綿とつながっていることを阿弥陀さまの眼から知らされて来ます。私一人のためにと願われていたのは、私が何事にも気づけないまま漆黒[しっこく]の人生を歩んでいるからであり、暗黒の中にいることさえ気づけない生き方をしていたのが、私自身の本当の姿であったのではないでしょうか。浄土真宗のお念仏は、その姿が私自身の自己中心的な生き方であったと示しています。
今回は、清水町 妙覚寺、脇谷暁融がお話しさせていただきました。
皆様は、いかがお過ごしでしょうか。いよいよお盆も近づき、夏の到来となりました。数年ぶりの猛暑で、連日に渡って寝苦しい夜が続きます。そのせいか、夏風邪もずいぶんと流行っており健康などの気遣いが多いかと思います。
暑さの中で、一軒一軒のお宅に参らせていただく、お盆参りも勤まっています。先立たれた多くの方々のいのちを大きなご縁といただき、古くからお付き合いのあるお宅ばかりでなく、近年になってご縁をいただいたお宅や、今年初めてお盆を迎えていただくお宅など、それぞれのきっかけが、それぞれのお宅にあってくださることと思います。私たちの人生において、さまざまな機会がめぐって、多くの尊いいのちを縁としていただくものです。
しかしながら、私たちはどこまでも自分だけを中心にして、ものを考えることをやめようとはしません。多くのいのちがあってこそ、私の命が、今日ここで生きている事実があるにもかかわらず、自己を中心として、自分のまわりに存在するものを、そしり、おとしめ、差別して生きているのではないでしょうか。
『世界の中心で愛を叫ぶ』という本が若者を中心にベストセラーとなり、映画化までなされました。その内容は純粋に他者との関係をいかに考えていくかというもので、端的な恋愛小説です。この中身について論じるものは何もありませんが、この題名でいう「世界の中心」とは、地球の一体どこにあるのでしょうか。
「世界の中心」はあくまで自分の存在のあるばしょから始まり、自分の存在を抜きにしては考えられない状況を示しています。自分のありようを正当化し、開き直るのも生き方かもしれませんが、それは私たちが拠り処としてきた、念仏の「み教え」とは大分違っているように思います。「世界の中心」としてしか考えが及ばない、考えることのできない自分のありようから、実は多くのいのちに支えられ、護られながら存在しているにもかかわらず、その姿に気づけない私がいるこの場所を、「世界の中心」と味わってみてはいかがでしょうか。
だからこそ、私のいのちが、ともに世界に生きる者たちのいのちと連綿とつながっていることを阿弥陀さまの眼から知らされて来ます。私一人のためにと願われていたのは、私が何事にも気づけないまま漆黒[しっこく]の人生を歩んでいるからであり、暗黒の中にいることさえ気づけない生き方をしていたのが、私自身の本当の姿であったのではないでしょうか。浄土真宗のお念仏は、その姿が私自身の自己中心的な生き方であったと示しています。
今回は、清水町 妙覚寺、脇谷暁融がお話しさせていただきました。
2004年7月16日金曜日
「お念仏の温かさ・やさしさ」 豊頃町 大正寺 高田芳行
現代社会は物事が複雑に入り混じって混乱した社会であるといわれます。その混乱の原因は、人々の生活の中に宗教がないからであると、ある仏教者が提言しています。
社会の混乱は、そのまま人間関係の混乱と荒廃ということでもあります。
人間関係が荒廃してくると、人間同士お互いのつながりが希薄になってきます。自分と他人とのつながりが見えにくくなってくるのです。お互いのつながりが見えないことにより、それぞれの人間が自己中心の考えに支配されて自己中心の生活に埋没してしまいます。そこに個々のエゴごエゴとがぶつかり合い、その社会は必然的に荒廃してくるというのです。
今、社会には、この自己中心的な生き方が広がっていて、これこそが社会の混乱の根源ではないかと考えられます。
「宗教不在が社会の混乱を招く」と提言した仏教者は、また「宗教は人と人とを結びつける温かさと優しさであり、接着剤のようなもの」といわれています。
以前に知人の結婚式に出席した時に、ある方のお祝いの言葉が心に残りました。それは、
という言葉でした。ここにいわれる、「ひとつのものを共に見つめていく」ということは、ややもすれば自己中心の考えから抜けきれない私たちであるからこそ、お互いがひとつの「み教え」[みおしえ]を人生の拠り処とすることが家庭生活、広くは、社会生活において何よりも大切であると教えてくれているといただきました。
親鸞聖人がおすすめくださったお念仏の「み教え」[みおしえ]は、自分の欲望を満足させるとか、自分の思いのままに人生が送れることを説いたものではありません。この私を救うという阿弥陀さまの願いを信じ、南無阿弥陀仏[なもあみだぶつ]のお念仏を称[とな]える中に、自分の本当の姿が知らされ、歩むべき方向を示して下さるのが、お念仏の「み教え」[みおしえ]です。
そこには私と他人とのつながりを知らせ、結びつける温かさがあり、優しさがあります。お念仏を孟子ながら私と自然、私と他人とのつながりに目を開いて、心を向けて、歩んでいきましょう。
社会の混乱は、そのまま人間関係の混乱と荒廃ということでもあります。
人間関係が荒廃してくると、人間同士お互いのつながりが希薄になってきます。自分と他人とのつながりが見えにくくなってくるのです。お互いのつながりが見えないことにより、それぞれの人間が自己中心の考えに支配されて自己中心の生活に埋没してしまいます。そこに個々のエゴごエゴとがぶつかり合い、その社会は必然的に荒廃してくるというのです。
今、社会には、この自己中心的な生き方が広がっていて、これこそが社会の混乱の根源ではないかと考えられます。
「宗教不在が社会の混乱を招く」と提言した仏教者は、また「宗教は人と人とを結びつける温かさと優しさであり、接着剤のようなもの」といわれています。
以前に知人の結婚式に出席した時に、ある方のお祝いの言葉が心に残りました。それは、
愛するということは、互いに見つめ合うことも大切だけれども、より大切なことは、ひとつのものを共に見つめていくこと
という言葉でした。ここにいわれる、「ひとつのものを共に見つめていく」ということは、ややもすれば自己中心の考えから抜けきれない私たちであるからこそ、お互いがひとつの「み教え」[みおしえ]を人生の拠り処とすることが家庭生活、広くは、社会生活において何よりも大切であると教えてくれているといただきました。
親鸞聖人がおすすめくださったお念仏の「み教え」[みおしえ]は、自分の欲望を満足させるとか、自分の思いのままに人生が送れることを説いたものではありません。この私を救うという阿弥陀さまの願いを信じ、南無阿弥陀仏[なもあみだぶつ]のお念仏を称[とな]える中に、自分の本当の姿が知らされ、歩むべき方向を示して下さるのが、お念仏の「み教え」[みおしえ]です。
そこには私と他人とのつながりを知らせ、結びつける温かさがあり、優しさがあります。お念仏を孟子ながら私と自然、私と他人とのつながりに目を開いて、心を向けて、歩んでいきましょう。
2004年7月1日木曜日
「みあとを慕って」 帯広市 仏照寺 藤本 実
もう、2年前になります。京都・本願寺で3泊4日の研修会に参加させていただきました。日曜学校を開かれている若いお寺さんの研修で実に楽しく、充実した研修でありましたが、最終日に過酷な試練が待ちかまえていました。
それは、滋賀県にある比叡山の山道を6人のグループで、いくつかの問題を解きながら一日かけて歩くものでした。折しも梅雨[つゆ]の時期で、朝から晩まで雨の降り続く山道を、なんとかゴールにたどり着きました。途中、もう少しで頂上というところで2人が座り込んでしまい、動けなくなってしまいましたが、休憩しながらゆっくり行こうと話し合いながらも、なぜか頂上を過ぎていないのに下り坂になりました。座り込んでしまった2人も元気を取り戻し、何とか進んでゆきましたが、目の前に立ちはだかったのは、霧にかすんで先が遥かに続く高い石の階段でした。
言葉を失い、座り込んでしまった6人全員をもう一度立ち上がらせ、歩き出させたのは、
「800年前に親鸞聖人もこの山道を歩かれたんじゃないか」
という一言でした。
親鸞聖人も、この比叡山で20年間修行をされ、法然上人のもとでお念仏を聞き開かれました。800年も先にご苦労された道筋を現代の私たちが同じ道を歩ませていただいていることに、頭が下がる思いでありました。
がんばることがすばらしいとほめたたえられる今ですが、「頭が下がる思い」を私たちは忘れてがんばって、へこたれていたのでした。
親鸞聖人は、ご和讃に
とお示しくださいました。
恭敬とは頭の下がる思いであり、反対に、頭の上がらない世界でもあります。その心に気づかせていただいた6人は、申すまでもなく、息を切らせながらも、声を合わせ、歌を歌いながら山を降りてきたことを申し添えます。
それは、滋賀県にある比叡山の山道を6人のグループで、いくつかの問題を解きながら一日かけて歩くものでした。折しも梅雨[つゆ]の時期で、朝から晩まで雨の降り続く山道を、なんとかゴールにたどり着きました。途中、もう少しで頂上というところで2人が座り込んでしまい、動けなくなってしまいましたが、休憩しながらゆっくり行こうと話し合いながらも、なぜか頂上を過ぎていないのに下り坂になりました。座り込んでしまった2人も元気を取り戻し、何とか進んでゆきましたが、目の前に立ちはだかったのは、霧にかすんで先が遥かに続く高い石の階段でした。
言葉を失い、座り込んでしまった6人全員をもう一度立ち上がらせ、歩き出させたのは、
「800年前に親鸞聖人もこの山道を歩かれたんじゃないか」
という一言でした。
親鸞聖人も、この比叡山で20年間修行をされ、法然上人のもとでお念仏を聞き開かれました。800年も先にご苦労された道筋を現代の私たちが同じ道を歩ませていただいていることに、頭が下がる思いでありました。
がんばることがすばらしいとほめたたえられる今ですが、「頭が下がる思い」を私たちは忘れてがんばって、へこたれていたのでした。
親鸞聖人は、ご和讃に
不退のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬[くぎょう]の心[しん]に執持[しゅうじ]して
弥陀[みだ]の名号[みょうごう]称[しょう]すべし
とお示しくださいました。
恭敬とは頭の下がる思いであり、反対に、頭の上がらない世界でもあります。その心に気づかせていただいた6人は、申すまでもなく、息を切らせながらも、声を合わせ、歌を歌いながら山を降りてきたことを申し添えます。
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